こんにちは、おっこちゃんです。

 

僕は最近になって、僕たち日本人にはネアンデルタール人遺伝子があることを知り深く感動しました。

 

僕にとって、ネアンデルタール人とは、コミュニケーション能力(言語能力)が欠如していたために、頭脳は良かったのに絶滅し、その後に現生人類ホモ・サピエンス(ヒト)が登場したと考えていたからです。

 

ところが、僕がうっかりしている間に、DNAの分析などを行う分子遺伝学が、ヒトのDNAからネアンデルタール人とヒトとの共存・交配があったことを裏付けたのです。

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アフリカをホモ・サピエンスに先立つこと数十万年前に出たネアンデルタール人は、後を追いかけたホモ・サピエンスと交配し、アフリカ以外の地域の人類のゲノムの約2%にネアンデルタール人の痕跡が見られるそうです。

 

さらに衝撃なのは、このネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人であり、どの集団よりも高く、約51%が持っているとこと。この遺伝子は体に侵入した細菌やウィルスなどから体を守る免疫システムに関係していて、花粉症などのアレルギー症状は、このシステムが過剰に反応することによって生じているとのことらしいです。

 

これは、外敵から身を守るシステムとしてはすばらしく、ネアンデルタール人からの贈り物だそうです。

 

また、日本人が非常にマスクが好きなのも納得ですね。

 

僕は、漠然と日本人というのは、昔は大陸と血続きであったので、北と南から来た人たちが混合してできた民族だと思っていたのですが、事実は、より針の穴をぬけるような特徴的なルーツなのかもしれないこともイメージできました。

 

結局、なんとなく何かがあるということは絶対になくて、日本人がここにいるのは、想像を絶する長い旅があったということなので、じわじわと人が移動して極東まで進出したというようなことではなさそうです。

 

つまりほとんど旅行に行かない僕の言い訳っぽい話になるのですが、日本人ほど長い旅をした民族はおらず日本が目的地であったということなので、何もいまさら中東やアジアに戻る必要もないわけです。何故ならそれは、僕の血の中に深い経験として、すでにあるからです。

 

それはもしかすると、キリスト教の約束の地にも似ていて、日本人とユダヤ人が同一民族だとおっしゃっている方もいます。

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中東あたりから世代交代はあったにしても、ストレートに交わらずに移動してきたとすると、僕が考える以上に、日本人のルーツは将来、特定できるものなのかもしれませんね。

 

こうしたことを考えることが、何か意味があるのかとか必ず思ったり言われたりしますが、それこそ身も蓋も何の発展もない話だと僕は思います。そう思われた方は、トロイの遺跡を発見したシュリーマンの話をぜひ読んでみてください。

 

邪馬台国がどこにあったかとかで、当時の舟を再現しての試みもありましたが、こうして、目をつぶって自分の遠い遠い先祖が歩んできた道を想像してみるだけでもゾクゾクするような興奮を感じます。

 

ちなみに、ネアンデルタール人の少女はとても美しかったのではないかという説もあり、これが人間との交配が進んだ原因になっているという説もあります。

 

3万年ぐらい前に、ネアンデルタール人がなぜ絶滅してしまったのかということは、まだ正確にはわかっていません。

 

ただ脳の質量はヒトよりも大きく、知能がヒトよりも低かったことは考えずらいそうです。

 

また発生部位の作りからヒトのような細かな伝達ができるまでの会話能力を持っておらず狩猟などのグループワークがあまり得意でなかったためにヒトとの戦いで敗北したという説もあります。でも僕はアフリカのライオンなどのグループでの狩猟を考えると、すくなくとも狩猟レベルはクリアーしていたように思います。

 

しかし、頭は良かったわけです。家族に対しての愛情も深かったに違いありません。

 

愛情はあるけれども言葉がない、言葉で愛情を表現できないことは、愛情がないということになるのでしょうか??

 

「言葉にできない」という小田和正さんの歌がありますが、「言葉にできない」と言葉にしているわけですが、そんなことはネアンデルタール人は考えなかったでしょうか。

 

でも僕は、「言葉にできない」と考えていたように思えてならないのです。

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人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい

人は嬉しいから笑うのではなく、笑うから嬉しくなる

 

こんな実験結果も聞いたことがあります。

 

でも、言葉にならない深い感情というものが、言葉にならないからこそ、あはれで深い感情があるように僕には思えてなりません。

 

もしかすると、日本人同士が会話をしなくても分かり合えるという、この頃はあまり受けない以心伝心という観念も、ネアンデルタール人を起源としているのではないかと僕は考えるのであります。

 

僕は自分の生きた時代や教育のために、言葉で発せられないものは何もないと一緒だという価値観を持っています。

 

けれども、それはもしかすると自分の価値観ではなく、自分がもたされた価値観ではないかと思うこともあります。

 

・ なぜ、必要もないのに、ディベートのような形で議論をしなければならないのでしょうか?

・ なぜ、物事には「賛成」「反対」「どちらでもない」の3択しかないのでしょうか?

・ なぜ、センテンスには主語をいれなければならないのでしょうか?ご存知の通り平安以前の日本の古典には主語などありません。形容詞・動詞が主語につくので必要がないからです。

 

僕にとって、ネアンデルタール人を考えるとは、このように発想が硬直したなと思った時に立ち返ることなのです。

 

さかのぼって深く考えてみることなのです。

 

どちらにしても、これからの新たな発見が楽しみです。

 

20170106 by okkochaan