こんにちは、おっこちゃんです。

 

この間の宇都宮の自爆事件は、いろんな点で衝撃でしたね。

 

そして、容疑者である、栗原敏勝さんのブログも公表はされていないようですが、ほぼ特定されたといっていいと思います。

 

それにしても、僕もあの日、宇都宮にいたわけだし確率は低いにしても、巻き添えをくった可能性は否定できないわけです。人はそうした可能性を考えると、巻き込まれなくてよかったという安堵を覚えるのでしょうか。

 

そして栗原敏勝さんという容疑者がいかに変わっていて、異常であるかと規定することにより、さらに安堵を得ようとするわけです。これは生きていくうえで必要なことですから否定する気はありません。

 

それにしても(どうもこの事件では、この「それにしても」が頻発する予感があるのですが、人間が多かれ少なかれもつ社会や人間関係への不満を原因として、今回のような大きな事件に発展してしまう確率というものは、僕は、さほど高いものとは思っていません。

 

つまり、ほとんどの人は、その手前で踏みとどまる良識をもっていると信じています。

 

僕は、さきほど、栗原敏勝さん(72歳)のブログを読んで、ブログの記事内容が結果であるのか、それとも、こうした事件を起こしてしまった性向が見て取れるとみるべきなのか、どちらなのかと考えています。

 

というのは、人間というのは、同じ不幸が訪れたとしても、その反応は実にさまざまではないかと思うからです。

 

例えば、日蓮という人は、通常であれば実に運が悪いと誰もが思うような不幸の連続の人生だったようで、初めはそうした運命を呪ったりしていましたが、その後、「いや、自分は仏道に帰依しているからこの程度ですんでいるのだ。」と、いよいよ仏への信仰を強くしたと聞いたことがあります。

 

つまり、同じ出来事があっても、社会を呪うひとと感謝する人に別れるわけです。

 

その意味では、栗原敏勝さんは不幸なことに、社会や家族や運命を呪う人であったのだと思っています。

 

例えば、ブログの名前のすぐ下のブログ紹介欄?は以下の記述となっています。

 

渡る世間は鬼ばかり他人の不幸は蜜の味を実感しております。
宇都宮家裁の組織として問題があると社会に訴えておりますが
神聖な場所で批判することはタブーでしょうか?

 

これ、意味わかりますか?僕は何度か読み返してみたのですが、どうしても意味がわかりませんでした。

 

こういう舌足らずで、自分の感情のみ先行して人に伝えた気になる方というのは、僕もこれまでたくさん会ってきた気がします。

 

読み手は意味を追っていくことが出来ず、読み続けることは苦痛であるため、結局ちゃんと読まれることはなく、ブログを書いた栗原敏勝さんは、おそらく「なぜ正しいことが伝わらないのだ?」と自問自答し、そして全く理解されずに孤立していき、人との意思の疎通がないことが耐えられなくなり、自分の意志を表すのに、あのような無茶な行為に出てしまったのではないかと、僕は思っているのです。

 

つまり、あの自爆は、栗原敏勝さんのゆがんだ自己主張であって、決して、死んでお詫びをするといったような殊勝なことではないと思っています。その感情は、むしろ怨念というたぐいのものでしょう。

 

自分の主張が全くとおらないから、悔しい、死んでやるといった、はた迷惑なことなわけです。

 

そのブログ記事は、ただ一方的に状況説明もなにもなく、感情をぶつけたに等しいレベルで、全くこなれていない強い言葉をぶつけているだけなのです。

 

滑稽なことに、なぜ自分の記事は炎上しないのかと自問自答しているようですが、読者はわずか3人で、炎上などするはずもありません。

 

結局、栗原敏勝さんは、不幸なことに、コミュニケーション能力が著しく欠如している方であったと言わざるを得ません。

 

その結果、社会的に聞いたことがあるような問題をテーマにしているつもりのようですが、当然ながら全く理解されず、なぜ理解されないかを最後までわからなかったのだろうと思います。

 

総合失調症の娘さんがいたことが原因としていますが、この病気を家族にもって苦しんでいるかたはたくさんいらっしゃいます。

 

でも、それは決して原因ではないと思います。

 

いろんなめぐりあわせで、金銭を国に取り上げられ、生活状況から受けられるべき保護も制度的に受けられない状況になったことに、どれほど正当性があるのかわかりませんが、制度だけを批判することに耳を貸すほど、世の中はおろかには出来ていないと、僕は信じています。

 

20161025 by okkochaan