こんにちは。

 

シニア世代において気になる人には気になるし、
避けて通れない問題として、介護の問題がある。

 

最近の調査例でみると、介護につかれて、いっそのこと・・・
と思ったことのある方の割合は非常に高いものがあり、
全く看過できない問題である。

 

介護の問題といえば、介護する側の問題が実際にはほとんどで、
職業として介護をなさっている介護士の給与引き上げも先日
国会で決定した記憶があるが、この問題の難しいところは、
いくつか考えられる。

 

そういえば、介護保険料というものも徴収されているわけだが、
その内訳や運用を詳しく知るかたも少ないと思われ、それは
僕も例外ではない。

 

介護は、まずなんとなく、関連語や連想される言葉として、
「義務」という言葉がつきまとい、これが個々のケースによって
事情が異なるし、それまで人間関係についても他人の知るところでは
ないため、介護する当事者は孤独に陥りがちである。

 

解説の必要もないと思われるけれども、個々のケースによる違いとは、
例えば長男の嫁だから、義父・義母の介護をするのは当然であるとか、
兄弟間で、誰が面倒を見るのか、同居はしているのかしていないのか、
とかである。

 

特にシニアの総人口に占める割合は増加の一途をたどっているし、
最近多いのは、介護する側もシニアというケースだと思う。

 

介護の政策的な問題は、僕の論じるところではないので、
ここでは、より本質的な問題として、介護とどう向き合っていけばいいか、
将来、介護される側になったときに、どのような心構えでいるべきか
などについて書いてみたい。

 

『たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず』
-石川啄木-

 

石川啄木は、たはむれにも母を背負ったことなどなかったのです。
にもかかわらず、その心をいみじくも詠み、感銘をあたえる詩としたところが、
天才たるゆえんだと思っています。

 

しかし、彼は介護などしたことはありません。

 

介護、特に家族の介護ということで限定していえば、何か
試されているような感覚が常にあるような気がします。

 

1.家族だから当然に介護すべきである

2.良い息子、良い嫁であれば、当然の義務である

 

といった具合です。

 

 

一方で、介護される側から見れば、通常は、わがままであったり、
気が短くなったり、場合によっては暴力をふるったりと、
これまで考えられなかったことが起こるかもしれません。

 

もしくは、アルツハイマーのように、本人がどれほど理解しているかが、
読めない場合もあるでしょう。

 

しかし、僕は介護される側が、どのような症状であったにせよ、
つまり意識がない状態であったり、介護する家族を認識できないような
状態であったとしても、どこかに冷静に物を観ている面が、
あるのではないかと考えています。

 

特に、アルツハイマーにかかった方が苦痛と感じるのは、
人として扱われていないと感じる時だそうです。

 

逆にいえば、介護される側の人間は、介護する側の人間の
心を正確に観ていると信じています。
むしろその面については、感覚すら研ぎ澄まされているように
思っています。

 

結局僕は、介護という行為を通して、人間通しの本当の
つながりができると考えています。

 

例えば、生まれてから、さんざんお世話になった親とも、少しすれば
手をつないだりすることは、なくなります。

 

それが、介護を通して、また逆の形でもとの関係にもどるのです。

 

人と人とのどうしようもなくも美しい究極の関係が「介護」ではと
きれいごとではなく、思っているのです。

 

by Okkochaan