さわや書店の文庫Xがすでに大手出版社や販売会社が見逃せないぐらいの勢いで売れている。

 

この文庫Xは、本のカバーに手書きの推薦文を書き、封印をして書名、作者を明かさず、値段は810円で統一という斬新な販売方法である。

 

そして、僕はこの販売方法に見習うべき点が多々あると思っている。

 

つまり、さわや書店の文庫Xは新たな価値の創造だと思う。

 

では、何が新しいのか、また一読者としてユーザー目線での感想も書いてみたい。

 

 

さわや書店フェザン店のツイッター(@SAWAYA_fezan)をみると紹介文は以下のようになっている。

盛岡駅、駅ビル「フェザン」南館1Fにある小さな書店です。スタッフが自信を持っておすすめする本の紹介を中心に、盛岡の今をお伝えします。 さわや書店の半分は、「遊び心」で出来てます。
2010年4月に登録となっていて、
フォロー3901
フォロワー 7636
ツイート 37020

という数は決して多くはない。

 

ただ2010年4月であれば、ツイッターユーザーとしては古参に入るかもしれない。

 

ツイートの内容は比較的マメで、駅ビルの小さな書店らしく、ほのぼのとした暖かさが伝わってくる。

 

パネルをつけて推薦する本は、必ずしもその時の新刊ではない。

 

スタッフがある本を仕掛けたいときには、なぜ売りたいのか、いつ売るべきなのか、どんな本と並べて売るのか、など徹底して話を聞くという店長の姿勢が、この文庫Xを生んだのだろう。

 

僕の認識では、本というのは、出版社や販売会社が広告を打って読者の興味を引きつけるというオーソドックスな手法での販売であり、新刊であったり、テレビや電車の広告などで広告経費をかけて売るものだと思っていた。

 

もちろん過去には、エンドユーザーの読者からじわじわとヒットしていったものもある。

 

記憶が正しければ、「日本人とユダヤ人」「かもめのジョナサン」などがそれにあたる。

 

これを、さながら八百屋が仕入れた新鮮な野菜を「いらっしゃい、いらっしゃい。本日入荷の本、面白いよ。あと5部しか残ってないよ。」といった感じのノリで売るという発想が初めから、さわや書店にあるとすれば、すばらしいというより、驚きが先に立つ。

僕にとって、本を読むということは極めて個人的な体験であり、店員の方も静かに本を読んだりしているイメージである。だから、大型書店のきらびやかな色彩と広告の氾濫は全く性に合わない。いたずらに目移りをするだけで、目的もなく本屋に行った場合、その中の一冊を選ぶことは、まさに拷問に等しい行為なのだ。

 

ところが、この、さわや書店のように駅ビルに入っている小さな書店の場合は、まず品数がそろっているかどうかが不安だけれども、ちょっとした生活の潤いを求めたり、何かちょっとした行き詰まりを感じてふらっと寄ったりしそうである。もちろん、なんとなくなので、大きな期待はなく、自分が読みたいような本に巡り会えたら幸せかもしれないと、はなはだ他力本願というか場当たりというか、ひやかしというかで立ち寄るものだと思う。

 

そこに、この強烈な、殴り書きのような推薦文を張り付け、しかも中身は開示されないけれども強い言葉で勧められれば、そもそも決断力に欠けている心理状態なのだから、買ってしまうかもしれないと思うのだ。

 

この文庫Xは、期せずしてか計画してなのかはわからないが、まさにその盲点を突いた企画なのである。

 

あるのは、ただ、この本をとにかく読んでもらいたいという熱意だけである。

 

しかも、買った人たちからの期待外れだったという声もなく、むしろ、ただ本棚にならんでいたらまず買わないけれども、読んでみて良かったという感想が圧倒的であるから驚きである。

 

その本がなんであるかというネタバレの記事も多く、本もほぼ特定できるようだが、かつてあったミステリーツアーのような楽しみを持って推薦されるということは、あまりないだろうから、その発想はまさにコロンブスの卵であると思う。

 

脇道にそれるが、僕は「ネタバレ」という言葉が嫌いである。まず語感が嫌いである。それにネタバレしたからなんだというのだろうか。僕が決してタイトルなどに使わないであろう言葉である。

 

さわや書店の文庫Xは、明らかに、新たな価値の創造だと思うが、すでに全国200店舗となり、新鮮さも急速に落ちていくことだろう。しかし、文庫Xの表紙に書かれた情熱を失わず、次々と真に時代が求めているような本を発掘し積極的に販売していくということは、大きな価値、大きな意味があるだろうと僕は確信している。

 

20161013 by okkochaan