こんにちは、おっこちゃんです。

 

またしても死体遺棄の事件がありました。

 

東京駅で、妻の遺骨が入った骨つぼをコインロッカーに放置し死体遺棄罪に問われたという事件です。

 

事件そのものは、あきれた話としか受け取れない内容で死者への恐れや畏敬の念とかが全く感じられません。

 

ところで、僕が驚いたのは、遺骨は火葬され骨つぼに入っていたので死体遺棄罪にならないのではないかと思っている方が多いことです。

 

死体遺棄罪という言葉を知らないとしても、いくら火葬したからといって骨つぼをコインロッカーに置くことに無感覚な状態が僕には異常としか思えません。

 

本質的な問題は、死者への畏敬や恐れの念がいつからなくなってしまったのだろうかという点だと思うし、「貧すれば鈍する」とか、何が大事なのかお墓がなぜあるのかとかもわからない、よりどころも何もない状態の不幸をどう解決するかということだと思っています。

 

ともかく、ここでは、死体遺棄罪はどのような時にあてはまるのかの具体例をあげておきますね。

 

しかし、死体遺棄罪に問われないからなんでもいいというわけではないことは、わかっていただければと念じています。

 

 

【死体遺棄罪とは】

簡単にいえば、死者は埋葬しなければならないのに、それを怠った場合に死体遺棄罪となります。

1. 電車の網棚に忘れたふりをして置き去りにする場合。

2. 他人のお墓に骨つぼを入れること。

3. 遺骨を自治体の許可を受けた墓地や納骨堂に埋葬せず庭に埋めること。

 

* なお、殺人の罪をおかしただけでは、死体遺棄罪にはなりませんが、それを移動させると死体遺棄罪だそうです。骨つぼを自宅に置いておくことは、死体遺棄罪になりません。

【死体遺棄は何故起こるのか】

 

これはもちろん「処分」に困ったからですが、そもそも「処分」と考えること自体がすでにおかしいです。

 

僕は、葬儀費用が出せないとか経済的理由が背景にあるとは思いません。

 

貧しい質素な葬儀であったとしても、十分に死者を弔うことはできます。

 

 

ただ「貧すれば鈍する」ではないですが、お金がないから「処分」できないのではなく、しっかりと弔うことが出来ないから心まで貧しくなってしまったのではないでしょうか。

 

知らないうちに、心まで貧しくなり、余裕がなくなり、人としてなすべき大事なことを「義務」としてしか考えられなくなる状態、真の貧しい状態に陥ってしまっているのです。

 

確かに葬儀というものは、個人差はありますが、それほど多くやらないだろうと思います。

 

核家族化が進み、年寄りを敬うということが軽視されている現代においては、「死」すらもぜいたく品になってしまったのでしょうか。

 

余裕のない社会、葬儀すらも費用を削れるだけけずって簡素化するのはやむを得ない面もありますが、たとえ簡素であっても死者を思い敬うことで供養はできるし、またそこにしか供養はないと思います。

 

遺骨はもちろんそれ自体では無価値かもしれませんが、そこに一人の人間の、身近で生きた人間の抜け殻があり、供養のよりどころとなるものであるわけです。

 

だから僕は、遺骨を粗末に扱うことは、自分自身を粗末に扱うこととであると思っています。

 

 

20170113  by okkochaan