こんにちは、おっこちゃんです。
この間、教育勅語を教材にするという閣議決定がありましたが、僕はこれで安倍政権も末期症状を呈してきたなと感じています。
僕が安倍政権を支持しない理由は、国民の質問に答えないこと、勝手に閣議決定で国民の理解を得てもいないのに強引に立法を進めること、感情的になりやすいことなどが主な理由です。
不思議なことに僕は人間的には安倍首相に惹かれるものを感じる時があります。
しかし、森友問題での安倍首相の答弁は、議長に注意もされたほど、何故か饒舌になり、ムキになっているとしか思えないような、感情だけでものを言っていると思われてもしかたがない様子に見えます。
あの籠池氏の証人喚問にしても、通常は参考人招致のステップを踏むことであり民間人であることなどから招致も拒んでいたのに、安倍首相から100万円の寄付金を受けたと籠池さんが話すやいきなり証人喚問となりました。
これは、安倍首相が激昂して籠池を証人喚問に呼べという鶴の一声でステップが飛び、なおかつ証人喚問の結果が予測に反してより問題をより複雑にしてしまいました。
さらに昭恵夫人を証人喚問に呼ぶことについては、強く感情的な反論をされ問題解決を引き伸ばしています。
そして、またもやとってつけたように、教育勅語を教材にするという閣議決定です。
組織のなかにいるとわからない場合があるのかもしれませんが、外側から見ると、まさにドタバタの茶番劇にしか見えません。
教育勅語の復活には、中国や北朝鮮、韓国などの脅威があると思われます。
それにしても、20年ぐらい前までは中国や韓国とは良い関係だったのに、どうしてここにきて、あたかも仇敵であるかのような付き合いしかできないのでしょうか。
そこに至るまでの外交努力を本当にしたといえるのでしょうか。
それは現在の安倍政権のせいであると僕は考えています。
僕には中国の友人がいますが、日本人となんら変わらない人間ですし、より親密な付き合いができればと思っています。
中国や韓国側に反日の気持ちがあることは事実です。
その多くは教育に負うところもが多く、また現在の政治のように互いに政府同士が嫌いあっている状況であれば人間は心象をコントロールされやすい弱さをもっているので、ちょっと時間的・物理的に距離がたまたまできたところに、変な話を囁かれると、すぐに疑心暗鬼になってしまうものでもあります。
だれもあまり話題にしていませんが、海外では日本が教育勅語を復活させたという話は、かなり警戒されるニュースであることは間違いありません。
安倍内閣は、最低でも教育勅語がいいことも言っているなどというあいまいな理由ではなく、教材としてであれ採用する理由を明確に国民に示す義務があると思うし、海外にも理解を得る必要があると思います。
ごく一部の教育勅語信者の意見に動かされて、こうした中途半端な閣議決定をするのは間違っているし、憲法違反と考えます。
ところで、みなさんには、両親とか身近な人で、愛してはいるけれど、その価値観にはついていけないと感じた経験はありませんか?
そして、過去には何度かそのことについて話をしたけれども、話し合いにならず諦めてしまったり、あるいは初めからあきらめていたりとかしたりしたことはありませんか?
僕にとって安倍政権の教育勅語の問題は、まさにその類の問題なのです。
懐古的な意味合いで、教育勅語を暗誦しているには問題はありません。それは趣味のことであって、誰も批判はできないでしょう。
しかし、教育勅語にいいところもあるので教材にするとか、憲法に抵触しない範囲で用いるとか、意味不明のことをいいだされたら断固拒否します。
なぜなら、教育勅語は憲法違反であるからです。閣議決定であっても、憲法違反であれば従う必要はないわけです。
理由はわからないのですが、この2017年4月現在では、自民党の一党独裁であり、安倍独裁であり、かつてのように自民党内での議論もなく、だれも異論を唱えないという、おそろしい状況になっています。
そして、残念ながら本来対抗する野党には力も人気もありません。
主権在民はかろうじて保たれていますが、国民は不幸と言わざるを得ない状況です。
内閣支持はおよそ50%ですが、その中の多くは、しかたなく支持しているのです。
そして、そのしかたなくのままズルズルと憲法改正とか教育勅語の復活とかに向かっています。
僕は、多くの場合、昔のことのある一面に(この場合は教育勅語のことをいっています)引きずられる場合は、動物であれば弱っている場合だと思っています。
以前も何かで書いたことがあるのですが、人間は弱っている時ほど、過去の経験的な記憶に脳が頼ろうとします。
例えば、道行くすれ違う人の顔を脳が誰か知った顔と認識しようとするし、特定の場所で過去にあった出来事を思い出したりばかりします。
それと全く同じような理由で、130年近く前に作られた教育勅語にすがろうとしているのだと考えています。
最後に羽仁五郎氏の言葉のbotから、これに関して僕が感銘を受けたツイートを貼っておきます。
現在の平和憲法を改正しようなんてことを、今の政府が言っているというのは、今の政府のやっている悪事が、もはや今の平和憲法の範囲内では、おさまりきれなくなったという何よりの証拠なのだ。もう憲法が、うるさくてうるさくてたまらないのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年4月3日
「この憲法は国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。」法律を見たら憲法違反ではないかと考え、政府の命令や行為を見たら、それが憲法に反しないかと考え、もしそうだったら従うなと憲法は言っているのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年4月3日
「愛国心という言葉は悪党の最後の隠れ家」とは英国の哲学者の名言だが、「法と秩序」は腐敗政治家が人民の批判を非合法視するときの常用句だ。法と秩序と言い、法治国家と言うが、その実態は警察国家なのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年4月3日
「知識に基づかない道徳などあり得るか、つまり無知の善があり得るか」と福沢諭吉は言う。知育の上に初めて徳育ができるのだし、道徳は理知的な内容を持って初めて確信のある道徳になるのだ。福沢諭吉は儒教がそういう弊害を非常に持つと言っている。こうした考えの頂点に立つのが、教育勅語なのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年3月15日
日本人が言うモラルには、力の強いものに力の弱いものが従う、長いものには巻かれろというような屈辱的な関係が多いため、人の心やわれわれの気持ちを高めてくれるということはあり得ない。だから日本で道徳教育と言うと、拒否反応があらわれたり、精神的な圧迫を受けたりするのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年3月15日
道徳は政治や法律の上にあるものだ。刑法に背けば罰せられるが、罰せられても罰せられなくても我々は道徳を守る。教育勅語は天皇が命令するというかたちで、道徳を政治や法律の下に置いたのだ。だから人間があらゆる悪いことをやりだしたのだ。教育勅語というのは日本の道徳が堕落した根本原因なのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年3月14日
教育というものは自由でなければいけない。教育と権力はあいいれない。つまり命令されて人間はいい人間になれるわけがない。自分でなろうとしなければだめだ。上から命令すればするほど自発性はなくなっていく。教育の根本はその自発性なのだ。
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年3月14日
歴史はほっておいても進歩すると考えているのは、歴史を知らない人びとである。ほっておけば過去がいつまでも現在を支配し、現在から未来への進歩のみちは開かれない。歴史上のあらゆる進歩が、常にこれを非合法として禁止しようとする力に対する抵抗を通じてのみ、実現された事実がこれを立証している
— 羽仁五郎bot (@gorohani) 2017年3月13日
20170404 by okkochaan