時事通信によると、政府は教育勅語が学校において教材として用いるのを認めているが、18日にさらに長妻議員の質問へ追加の答弁書を発表しました。
政府は18日、憲法や教育基本法に反しない形で教育勅語の教材活用を容認した先の答弁書に関連し、どのような使い方が憲法や教基法に反するかの判断や、不適切な使用があった場合の対応を、学校の設置者や自治体の教育委員会などに委ねるとした新たな答弁書を決定した。
教育勅語についての議論や反対意見などは、ある程度はでつくしている感があるので、ここでは書きません。
今日は、そもそも論になるのですが、どうして教育勅語にこれほどこだわっているのか、日本人にとって、教育勅語は何だったのか、あるいは、何であるのか、何になろうとしているのかということについての所見を書きたいと思います。
そこで、思いだすのは、あの籠池氏が国会に証人喚問された日の夜に、外国人記者クラブでふと出た言葉です。
言葉は正確でないですが、「戦後70年を経て今の日本には閉そく感がある」ということでした。
これは、いみじくも、今の日本人に共通した生活感ではないでしょうか。
高齢化社会に移行していることや出生率の低下、若い世代の労働条件の低下など、政策で改善できる部分もあるとは思いますが、大筋では、政権をどこがとっても変わらないという思いは、国民の大多数の感じているところだと思います。
この事は、日本の第一党は無党派層であることからも明らかです。
もちろん、よく引き合いにでてくるバブル期であるとか、その前の高度成長期が例外であるという見方もあります。
ともかく、この閉そく感が籠池氏にあっては、旧体制の主権在君、具体的なテキストとして教育勅語ということなのではないでしょうか。
右にいくか左にいくかの違いはあるにせよ、共通したベースがあると思います。
ところで、民主主義の教育を受けてきたほとんどの方には、実際に教室に教育勅語と天皇の御影があることを経験した人の方は、すでにわずかなわけですから、何か新しい価値観のごとく錯覚することも頷けます。
また、リベラルな教育を受けてきた方々とか帰国子女のような方々にとっては、外国人と同じく、非常に奇異なものとしてこの教育勅語の問題をとらえることと思います。
ですが、僕がここで言いたいのは、この問題の本質は教育勅語に賛成する方も反対する方も根が一緒だということです。
つまり日本人は島国ということもあり、また長く続いた身分制度や生まれた土地からの移動が出来なかった歴史から、相互に監視しあう隣組での管理が容易であったという事です。
そしてその自治会的な集まりで、当然ながら意見の対立はありますが、対立意見があってもどこかで分かり合えるような錯覚が可能な状態なのです。
憲法改正を推進する方々は、現行の憲法がアメリカから押し付けられたものだといいます。
これには、異論もありますが、少なくともデモクラシーを圧政からの開放として自らの手で勝ち取ったわけではないということは事実です。
押し付けられたのは憲法ではなく、民主主義であるという見方も可能です。
なぜこんなことを言うかといえば、安倍政権が目指しているのは、民主主義の実現ではなく、むしろ王政復古とでも云うべき一党独裁政権に見えるからです。
また日本は民主主義国家ということですが、日本人には向いていない政治システムなのかもしれないと一度は疑ってかかる必要もあるだろうと考えます。
憲法が保証する基本的人権であるとか戦争放棄であるとか幸福で文化的な生活といったものから、だんだんと遠ざかっていることは明らかですし、北の脅威をも利用して軍事国家を目指しているとしか見えません。
残業時間の問題についても、労働基準法という無視され続けた法律をたまたま過労死なさった方が社会的に大きく問題となったために、つい直前まで残業規制なしを目指していたホワイトカラー・エグゼンプションの話をあたかもなかったかのように引っ込めて、また頃合をみて出してくるわけです。
三権分立についても、とくに憲法違反を監視すべき司法が無力であり、トランプ大統領の大統領令を州の裁判所で差し止めて即座に無効にしたアメリカのようなことはできません。
そして野党は遺憾ながら細部や矛盾点を突くぐらいしかできていません。
僕は野党の弱いところは、本質を突かないで周辺から矛盾を突くぐらいしかしていないからだと思います。
政府与党がその政策や法案によって、何を目指しているのかという本質をつかなければなりません。
教育勅語がいいことも言っていると閣僚が国会で明言しているのに、それが間違いであることを徹底的に突かなければならなかったのではないでしょうか。
そして、教育勅語の運用については、どのような使い方が憲法や教基法に反するかの判断や、不適切な使用があった場合の対応を、学校の設置者や自治体の教育委員会などに委ねるという、非常に狡猾と思える方法で進めています。
安倍内閣は、70年前に国会で明確に否認された教育勅語について正面から議論することは得策でないと判断しているのです。
そして安倍政権を認めない方々も、どこかで体のなかに教育勅語的感性があることを恐れているのではないでしょうか。
それは、リベラルな外見をひと皮むけば出てくるかもしれず、二皮目で出てくるかもしれません。
あたかも人間が卵から誕生するまでに、高速度で生物の進化をたどるように、そのプロセスにおいて、神風特攻隊のアメリカの戦艦に特攻していく姿とか、サクラが散るように単に花道をかざるために沖縄での玉砕を目指して旅立った戦艦大和を美化することとかが現れてくるのです。
あの言論統制されていた時代に異をとなえることが出来なかったとしても、しかたがないことだと思います。
少しでも意向に背けば非国民扱いであり、それは教育勅語の徳目に背いたことでした。
しかし、教育勅語は戦前にも当初は同じような違和感があったのです。
つまり、その時代でもすでに、なんでいまさら教育勅語なんだという考えは多くありました。
しかし、太平洋戦争に突入し、一億玉砕へと向かったその中心的な道徳として据えられていたことを忘れてはいけないと思います。
教育勅語はあたかも日本の皇室の歴史のように時の権力者によって利用されました。
そして今再び利用されようとしています。
こうした、いわばいわくつきのものを、あたかもリトマス試験紙で振り分けるかのように、その使い方は学校の設置者や自治体の教育委員会に委ねるということは、効率的な力による言論統制が出来るようになることを意味するのです。
特に注意すべき点は、現場の教員ではなく、学校の設置者や自治体の教育委員会に委ねるとしたことです。
学校がいかなる権力にも指図されないことが明確に担保されていればそれでも良いと思いますが、決してそんなことはありません。
ひとつの例として、あの森友学園の園児に教育勅語を暗誦させていたことは教育基本法に明らかに反していると思いますが、それについてはどのような見解なのか、仮に同じことがあった場合はどうするのか、罰則規定はどうなっているのかなど厳しく追求すべきだと思います。
20170419 by okkochaan