財務省が日本を滅ぼす

こんな疑問が浮かんだ。

 

国家公務員、特にキャリアと言われる一種の差別化を本質的にもっている官僚組織は、本当に必要なのだろうか?

 

財務省が日本を滅ぼす危機を回避するにはエリート採用という制度を撤廃するべきではないだろうか、と。

 

僕は官僚になりたいと思ったことは一度もないが、財務省でキャリア採用されるには東大法学部を出て難しい試験を受け、さらにその中で選抜された超エリートである必要があるらしい。

 

森友問題での答弁などを見ても、頭の良さは随所に感じるけれども、にもかかわらず、「こんな人たち」に任せきりでいいのかという素朴な疑問が生じている。

 

以下は、僕の素朴な現時点での思いを庶民の一人としての立場から書いたものである。

 

「財務省が日本を滅ぼす」という本がある。

 

三橋貴明氏が書いていて僕の読書リストに入っているが、まだ読めていない。

 

この本で、なぜ三橋氏が財務省が日本を滅ぼすといっているのかというと、財務省が国内に向けては「財政破綻論」をまき散らす黒幕であることにあるらしい。財務省OBの天下り先である国際機関を使って「増税せよ」と外圧をかけ、緊縮財政を実行して、日本国を小国化させようとしていると主張している。

 

結果、国益よりも省益を優先しているため、このままでは「亡国」に至ること必至ということらしい。

 

この本、出来るだけ早く読んでみよう。

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学歴偏重社会は官僚制度から来ている

今から数十年前のある夜、僕は友達と日比谷公園を歩いていた。

 

なぜ夜の日比谷公園などを彼と歩いていたのか前後は全く覚えていない。

 

夜の日比谷公園といっても、男の友達であり、周囲は当時の言葉では、アベックばかりであった。

 

今はなんというのだろうか。カップルでいいのだろうか。

 

それとも不倫関係?パートナー?

 

それはどうでもいいのだが、若い僕にはちょっと刺激的な雰囲気があった。

 

足早に公園を抜けようと思ったのだが、ふと見ると、夜の八時は過ぎていたと思うのだが、官庁の高いビルの電気が煌々と点いているのだった。

 

実は僕は、ちょっとだけ東大コンプレックスだった。

 

高校も進学校だったが良い大学に入り良い会社に入るという目的に対し、疑問もなく邁進する級友を横目にみながら文学に熱中していた。

 

そして、ここが僕の駄目なところだが、エリート意識も捨てきれず、付き合い程度に勉強もして、一応世間的には認められている大学に入ったけれども、どこかに本来なら東大に入れたという意識がどこかにあった。

 

僕:(官庁のライトをみながら)僕もひょっとしたら、今ごろ、官庁で仕事をしていたんだな。

友人:そうならなくて、良かったな。

 

今思うと、友人は本心からそう言ったことがわかる。

 

そして、僕自身は親とか親戚とかの価値観とか期待に添えていないという引け目から抜けられないでいたことも。

 

だが、日本のような学歴偏重社会においては、僕のような思いをしている方は多くいるような気がする。

 

それはヘルマン・ヘッセの「車輪の下」のような状態だ。

 

今では決して負け惜しみではないのだが、森友学園の問題などを見て、高級官僚となり成功した人たちは幸せなのだろうかと思っている。







 

学歴社会は中国・韓国と比較しても日本はゆるい方か

中国では科挙の歴史があり、一族のなかで受かったひとが出れば、一族まで恩恵がもたらされる。

 

韓国も日本以上の学歴社会であり官僚社会だろう。

 

しかし、不幸中の幸いというべきか、僕は日本は上記2国と比較してみた限りでは、ずっと自由であるように思う。

 

いずれにしても、こうした学歴偏重は官僚が強い社会を産んでいて決して政治主導では動かない。

 

僕は現在の安倍政権を支持していないけれども、内閣人事局を創って人事権を掌握しようとしたことが今回の財務省の森友学園への国有地売却の決裁文書を書き換えたことと関係はあると思っている。

 

だがこうした官僚が強い社会は本当に国民に利益をもたらすのだろうか。

 

政策に対しての賛否は当然あるにしても、政治主導で物事を決めていくという事については、与野党の区別なく進めて欲しいと国民は考えていないだろうか。

 

また、より本質的な問題を言えば、官庁が行っているあらゆることが、ベンチマークというより、上意下達のように民間企業もまねをするようなことは、もはや時代遅れではないだろうか。

 

例えば、キャリアとノンキャリという区別だとか、給与の決め方とか、役職の決め方とか、残業など労働法関連のことだとかだが、日本が近代国家として明治以来頑張ってきた歴史のなかで果たした役割は、もはや終わったのではないだろうか。

 

日本社会は、外見的にはくそ真面目で窮屈な社会で、自由もないと思われているが、僕は実は驚くほど基準を外れた例外が存在していると思うし、それはつまり、寛容な広い心を実態として持っているということだと考えている。

 

ゆえに、歴史を見ても、本質的な教義上の対立として戦争が起こったりしたこともないし、宗教が結婚などに影響を与えることも非常に少ないと思う。

 

実際、世界のどこの国民にこれほど宗教的に寛容なところがあるだろうか。

 

生まれたときは、ほぼ無宗教で始まり、幼稚園とか学校とかで宗教法人が経営しているところに入らない限り、ほぼ無宗教である。

 

結婚のときは、キリスト教式が最も多いと思うけれども、だからといってクリスチャンであるわけでもない。

 

そして、亡くなると、お金を払って戒名を貰い、仏式の葬式とお墓とか法事をして貰う。

 

もちろん、亡くなった当人だって、仏教徒であったわけでもなく、まして特定の宗派に属していたわけでもない。

 

これらのことが、全く矛盾なく行えて、しかも性格はきわめて勤勉であり能力も高く、抽象的な論争は好まない。

 

冷静に考えると、これは、欧米人からみても未開の国の住民からみても、理解しがたいことだし、ある意味、無敵の国民性ではないだろうか。

 

つまり、日本人はくそ真面目で、車が全く通らなくても信号が赤であれば止まるような性格をもちながらも、柔軟な思考ができるという実に不思議な特性をもっており、それがあらゆる物事に例外を認め、学歴社会でありながら寛容な例外も併せて持っているのだと思う。

 

まとめ

柔軟な思考と寛容な性格をもっている日本人は、官僚中心の国家の組み立てから脱する時期にきていると思います。

 

まずは、エリートが官僚になるような社会から脱するべきだし、官庁による優劣とか、いまだにすでにない官庁である大蔵省などといっている財務省の体質は淘汰される時期にきたのではないでしょうか。

 

そのためには、官立大学の頂点にある東大もつぶした方がいいと考えています。

 

20180319 by okkochaan