フェニックスおっこ

 

さだまさしさんの償い歌詞についての話題がまた出てきているので、
僕も日ごろ思っていることを書いてみたくなりました。

 

 

さだまさしさんが、「償い」を作ったのが1982年、
ちなみにグレープで最も有名な曲の一つで、
僕も大好きな「精霊流し」が1972年。

 

無縁坂」が1975年、「線香花火」が1976年です。

 

僕自身は率直な感想として、
さだまさしさんの歌は古いものほど好きです。

 

 

その後の小説家や芸能関係での活躍を批判するわけでは決してありません。

 

 

しかし、強い感動を与えてくれるという意味では、
時代が下るほど落ちてきているように思えます。

 

 

1979年の「関白宣言」に至っては、
曲も楽しく、歌詞も面白いですが、
感動というのとは、ちょっと違います。

 

 

山口百恵さんが歌った「秋桜」が1977年です。

 

 

ちょっと有名どころを書いただけですが、年代順に並べてみます。

 

 

1972年 精霊流し

1975年 無縁坂

1976年 線香花火

1977年 秋桜

1979年 関白宣言

 

 

(なお、画像から、さだまさしさんの1973-1978のベストソングのCDが楽天で購入できます。)

 

 

僕は、さだまさしさんは、
芸術家としては、
年代が下るにつれて円熟するというよりは
通俗に流れていってしまった気がしてなりません。

 

 

もともとが落語好きで話好きな明るい性格の方なので、
若いころは老人ぽかったのが、
だんだんと普通になり、
通俗になり、
有名になって収入も増えているので
作品の質が落ちても世間では気づかなかったのかなと考えています。

 

 

ただ、「防人の詩」1980年は、
当時、小説家の辻邦夫さんが
「なぜ、あの若さでここまで到達できたのか」
とうなったことを覚えていますし、
遠藤周作さんとの対談で、
さだまさしさんがキリスト役になると似合うとか話が出ていたことを覚えています。

 

 

僕の観るところ、さださんの表現力の頂点は2回あり、
それは、1972年の精霊流しと、
1980年の防人の詩ではないかと思っています。

 

 

そして、「償い」は1982年です。

 

 

この歌詞をめぐっては、
裁判の判決時の裁判官の講話として、
さだまさしさんの償いを聞いたことがあるか、
歌詞だけでも読みなさい」とあってから、
歌詞も直接的な表現で、わかりやすいために、
「道徳教育」の教材となってしまいました。

 

僕は、「償い」の頃、
さださんの芸術家としての表現力は
下降していたと思いますし、
それは、彼の他の曲と比較しても明らかであり、
今後、時がたてば、
ますますはっきりしてくるのではないかと思っています。

 

 

何がいいたいかというと、
「償い」は、表現で重要な現実の素材からの仕上げのプロセスが、
あまりほどこされたは言い難い作品なのではないかということです。

 

 

しかし、この歌の感動の質は、
さださんの他の歌と共通の、
人間のどうしようもない情念の動きをとらえているとは思います。

 

 

また、他の歌が、死者、
もしくは死者を思う主人公が主役でいるのに対し、
償い」では、交通事故で死んでしまったご主人は、
脇役にすぎず、
ゆうちゃんと奥さんという生きている人たちが主人公になっています。

 

 

亡くなったご主人が脇役であるため、
残念ながら他の曲と比較しても歌の深みという点では落ちると思います。

 

 

歌の深みが落ちるにもかかわらず、
この曲が話題になるのは、
交通事故での被害者や加害者の方々が、
聞いて身につまされる思いになったり、
「罪を憎んで人を憎まず」の裁判官の心にも
響きやすかったからではないかと思います。

 

 

でも、やはり僕は、精霊流し防人の詩とは比較にならないと思います。

 

 

交通事故での被害者、
加害者というのは想像以上に多いこと、
いつでも自分がそのどちらかになる高い可能性があることから、
無関心ではいられませんが、
それと芸術とは全く関係がありません。

 

 

また被害者ならこう思うだろう、
このような心の状態だろうというのは、
他人の勝手な憶測にすぎません。

 

 

加害者もそうです。

 

 

均一な感情の状態というのは、
自分自身の感情の動きを観察すればわかると思いますが、
怒りにせよ喜びにせよ、
同じレベルで感情を維持するのは困難です。

 

 

こうなったから怒っているはずだとか、
悲しんでいるはずだというのは、
あくまでも想像上のことでしかありません。

 

 

条件反射としての心の動きは、
ある程度予測できると思います。

 

 

例えば親しい人を失ったかたが、
ずっと同じ感情を保つというのは、
生物学的に考えてもあり得ず、
むしろ、それを忘れないために、
尼寺に入ったり、
被害者の会を作ったりしているのだと思います。

 

 

人は無意識に忘れることへの恐怖と戦っているのだと思います。

 

 

お墓があったり命日があったりお盆があったりするのも、
すべて同じ理由です。

 

 

忘れることは、自分のよって立つ
アイデンティティを失うということなのです。

 

 

だから、僕は、さだまさしさんの償い歌詞を読んで、
このゆうちゃんの償いが終わったとか許されたとかする
議論そのものがナンセンスだと考えている次第です。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

 

20181211 rewrite by okkochaan