筑波自然植物園タヌキ

こんにちは、おっこちゃんです。

 

どうもしつこくだらだらと続いてすみませんが、本日はシニアとは何かを
より明確に規定するために、シニアと子供はなにが違うのかということを
書いてみます。

 

僕と同世代のかたなら、こんな歌をご存じだろうと思います。

 

「喫茶店に彼女と二人で入って、コーヒーを注文すること、ああそれが青春!」

 

拓郎さんも今や70歳、シニアど真ん中の後の方ぐらいのご年齢ですが、
この歌の最後に「さて青春とはいったい何だろう?」と自問して、
「時間を持っている」と、当時のフォークらしい答えになっていないというか、
ちょっと外した返しで結んでいます。

 

話がそれますが、拓郎さんのはシニアのテーマに関係あることを
いろいろ歌っています。

 
例えば、襟裳岬で、「わけのわからないことに、悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから」ときて、「襟裳の春は何もない春です。」と
結んでいますが、四角四面にいえば、この状態を脱却することを
このブログでは目指しているのです。

 

当時は、陽水さんも「父は65、母は64・・・思い出してる夢見るように
夢見るようにーー」ときて、「人生が二度あれば、人生が二度あれば」
と完全に人生が終わったかわいそうな人として歌われています。

 

当時と時代は違うといえばそれまでですが、今は80歳が平均の時代、
65歳なんて若造といってもいい時代です。

 

江戸時代の平均寿命が45歳ぐらいであったことを思うと、我々は
なんだかんだいって、幸せなのかなとも思ってしまいます。

 

ぼく自身のことを話しますと、ぼくは、小さいころ(小学校低学年ぐらい)、
人間は歳をとると同じ人間になるんだと本気で思っていました。

 

つまり、年寄が同じに見えただけなのですが・・・。

 

その後、成人し社会人となり、またシニアといわれる年齢になり・・・
正直言って、何も変わっていません。ぼくは自分が10代のころと、
何一つ進歩も退歩もしていないと思っています。

 

孔子の40にして惑わずも、全く関係なしで、惑いまくっていましたし、
30にして立つこともなく・・・

 

30にして立つ40にして惑わず50にして天命を知る60にして耳従う

 

すべて、全く関係なし、そんなの関係ない!そんなの関係ない!の
小島よしお状態なのです。

 

ぼくだけでしょうか?

 

おっこちゃんは、本当にわからないので教えてください。

 

ぼくだけでしょうか???

 

結局、ぼくの結論としては、シニアと子供はなにも違わないということに
なります。

 

しかし、それでは身もふたもなく、これで話が終わりだし、そもそも
シニアって特別な身分はないんだから、そういうことで終わりって
ことになってしまうわけです。そういえば、三つ子の魂百までとも
いうわけだし、そうゆうことなのねってわけです。

 

結局、自分がシニアになったけど、チミの親は今のチミの歳で
ずいぶん威張っていて、悟ったような顔して偉そうだったけど、
そして、チミもそんな風になるのかなと思っていたけれども、
そうはならなくて、しかも何にも変わらないから肩透かしを
食らった気持ちになっているんだよ、ということだったのでしょうか。

 

そういえば、チミの家に麻雀をやりにきて卓を囲んだ3人は、
全員直腸がんであっけなく死んでしまったし、麻雀仲間もおらず、
一人でパチンコをしにいっても、爺さんばあさんばかりでつまらないし、
チミもその麻雀の3人と同じようにあっけなく死ぬかもしれないけど、往生際が悪いのか病気もしないので、これでは、あまりにも
能無しみたいだから、「シニアの生きがいを考える」とかっこずけては
みたけれど、やっぱり何にもないからかーえろっと、というところ
でしょうか。

 

さあ、どうしましょうか。

 

とふるだけふっておいて、あとは次回としたいと思います。

 

ばいばい。