村上春樹 魅力

最近はまってしまった村上春樹さんの魅力について、少し語らせてください。

 

僕はブロガーの端くれとして、出来るだけ多くの本を読むようにしています。

 

やはり読書は何をやるにしても基礎体力(スポーツでいえばランニング)のようなものだと思っているので、できればジャンルを問わず偏見なく読みたいと思っているのです。

 

あまり知られていませんが、ドストエフスキーは晩年になってからも定期を買って図書館に通って本を読んでいました。

 

その時の意気込みは「図書館ひとつ読む」というものであり、本を数冊よむというような生ぬるいものではありません。

 

現在のようにインターネットや動画で知識が簡単に入る時代にあっても、僕は書籍から得る知識とか小説を読むことでの疑似体験以上のものがネットや動画から得られるとは思いません。

 

ネットや動画は手軽であり、かつてのテレビが普及した時のように受け手にとっては、主体的なかかわり方をしなくても受動的でよいという、楽なツールです。

 

それに対し、読書をするという行為は、明らかに主体的にかかわろうとする意志がなければできないことであり、ここに決定的に大きな違いがあります。

 

なので、最近ユーチューブが流行っているので、ブログがオワコンだという意見もありますが、それはあくまで安易に情報を受けたい層に対してのみ正しいのかなと思うし、単にアクセス数のみを考えての判断だと思っています。

 

ブログを書くのはもちろんですが、読むことも読書的な体験であり主体的なかかわりが必要だからです。

 

そんな僕が、ふとしたはずみで村上春樹さんの小説を読みました。

 

始めに読んだのは「海辺のカフカ」です。

 

僕は、偏見だと思いますが、現役の作家の本はほとんど読みません。

 

それは、人類の過去の累積である膨大な書籍に比べると、現役の作家がどうしても貧相に見えてしまうからです。

 

なので、現役作家である村上春樹さんの作品を読んだのは、僕にとってはかなり特殊な体験ということになります。

 

しかし、その結果、僕は見事に村上春樹さんの魅力にはまってしまいました。

 

どのくらいはまったかというと、全集を手にしてすべて読むぐらいはまりました。

 

一人の作家に入れ込んだことがある方にはわかると思いますが、はまってしまうと、その作家について賞賛やら批判とかが「自分のことを言われているような気がする」状態になります。

 

村上春樹さんは、全く予定外にそのような作家のひとりになってしまいました。

 

過去に全集で読んだといえば、ドストエフスキー、太宰治、森鴎外、井上靖、谷崎潤一郎、芥川龍之介、三島由紀夫ぐらいであり、それらの作家はすべて亡くなっているので、ある意味、「安心して」読めました。

 

現役作家について、僕は斜に構えてみてしまう偏見があり、特に村上春樹さんはノーベル文学賞の話が何度も出ていたりして、それがなおさら僕にとって距離を作ってしまっていました。

 

しかし、「海辺のカフカ」を読んで、僕は衝撃を受けました。

 

長編小説でありながら、ストーリーはあくまで狭い個人的な体験ともいえ、登場人物が経済的な面で余裕があることは一旦おいて考えても、このテーマでここまで長く書けるんだということに妙に感動したのです。

 

とはいえ、村上春樹全集の読破は現在進行形なので、僕のなかでの村上春樹の位置づけには、まだまだ時間がかかるだろうと思います。

 

しかし、今、僕をとらえている村上春樹さんの魅力については、いくつかあげられます。

 

村上春樹さんの魅力は女の子との会話の面白さ

村上春樹 少女

 

村上春樹さんの魅力として第一にあげたいのは、会話の面白さです。

 

実は読みながら、現実世界でこのような女の子は本当に存在するのだろうかという疑問とそんな会話をしたいという欲求をいつも感じています。

 

もちろん小説だからといえばそれまでですが、それでもそれは「あらまほし」というほどかけ離れたものではなく、女の子との付き合い、あるいは人間同士の付き合いは、これほど自然で楽しくできるんだという気がしてきます。

 

たとえば、以下は「ダンス・ダンス・ダンス」からの引用ですが、話の流れを簡単に書いてから引用します。

 

34歳の主人公である「僕」は、ふとしたきっかけで知り合った13歳の少女と車で辻堂の彼女の父親に会いに行くことになります。

「僕」は離婚を経験していて、村上春樹さんによく登場してくる羊男という異次元空間からの支配もされ、いろいろ面倒なことにも巻き込まれています。

少女は、「僕」がこれまで付き合った誰よりも美しく、僕が15歳だったら間違いなく恋をしたろうと思うほど。

一方で、性格はそっけないしぶっきらぼう。

その二人が車からおりて、辻堂の海辺を散歩するシーンでの会話です。

少女は母親が有名なカメラマンであることもあり、中学校でいじめられ不登校になっています。

(念のためですが、少女のこの話はあくまで小説のなかでの僕と少女を描写するための会話であり、ストーリーにはあまり関係はありません)

「僕」は同じように学校をくだらないと思っています。

 

「本当にそう思う?」

「もちろん、学校のくだらなさについてなら一時間だってしゃべれる」

「でも義務教育よ、中学校って」

「そういうことは誰か他の人が考えることで、君が考えることじゃない。みんなが君を苛めるような場所に行く義務なんて何もない。まったくない。そういのを嫌だという権利は君にあるんだよ。大きな声で嫌だと言えばいいんだ」

「でもそれから先はどうなるの?ずっとそういう事の繰り返しなの?」

「僕も十三の時はそういう風に思ったこともあった」と僕は言った。「こんなままの人生が続くんじゃないかって。でもそんなことない。何とかなる。何とかならなかったら、またそのときに考えればいい。もう少し大きくなれば恋もする。ブラジャーも買ってもらえる。世界を見る目も変わってくる」

「あなたって馬鹿ね」と彼女はあきれたように言った。「あのねえ、最近の十三の女の子はみんなブラくらい持っているわよ。あなた半世紀くらい遅れてるんじゃない?」

「へえ」と僕は言った。

「うん」とユキは言った。そしてもう一度確認した。「あなた馬鹿よ」

「そうかもしれない」と僕は言った。

-ダンス・ダンス・ダンスから引用-

 

 

「もう少し大きくなれば恋もする。ブラジャーも買ってもらえる。世界を見る目も変わってくる」

のくだりで、僕は大笑いしてしまったのですが、ここは笑いを狙っているわけではありません。

 

余談ですが、昔の東大の入試問題を思い出してしまいました。

 

その問題は、男と女が交互に会話をしていて、最後の空白で次の会話を書けという問題でした。

 

この「僕も十三の時はそう思った云々」の僕の会話のところを空白にして書かせる問題をつくるといいものが出来ると思います。

 

また、一見坦々と書いていますが、実に生き生きとした会話であり、紛れもなく男と女の会話として成立している名文です

 

これは村上春樹さんの小説の大きな魅力なのです。

 

 

その他、村上春樹さんの魅力として僕が感じているのは、料理のこと音楽のこと風景描写のこと異次元空間のことなどがあります。

 

おそらくですが、村上春樹さんのファンが多いのは、それぞれのファンが自分の事を書いていると思い、感情移入ができるからに違いありません。

 

それは読者に寄り添って書くことが出来ていることであり、ブログやメルマガなどを書いている人にとっても、得るものは多いと思います。

 

よくアフィリエイトの教材や塾などで文章が書けない人に対して、小説家のような名文を書く必要はないと教えていますが、僕はそうは思いません。

 

確かに名文を書く必要はないかもしれませんが、よいものを読まなければ、名文に近づく表現も決してできるようにはならないと考えています。

 

長くなってしまったので、これらの魅力については、別記事で書いていこうと思います。

 

 

20190620 by okkochaan