この記事は、楽しく読んでもらえたらいいなと思いながら書きました。
派遣会社がピンハネ業者といわれるのはおかしいという記事を書いていたら、
相当昔の話ですが、僕自身がリアルでピンハネされそうになったことを思い出したのです。
それが、どのくらい昔かというと、
あの名曲「神田川」が街に流れていたころになります。
たぶん、今の30代以下のかたには伝説のような昔話ですね。
昭和の中野のパチンコ屋
そのころ、僕はほとんど学校にも行かず、
毎日パチンコと将来書いて作家デビューするであろう
小説についての文学談義をしていました。
長い時間がたち、やっと少しは思い出せるようになってきましたが、
時間がかなりたっても、恥ずかしくて、
自分にも隠しているようなことは、
今でもたくさんあります。
その中野のパチンコ屋が、僕の仕事場でもあり、
社交場でもあったのですが、近くの喫茶店で
モーニングを食べながら、
まったりと、今日の作戦を考えたりしていました。
パチンコ屋の開店時には、威勢のいい軍艦マーチが鳴り響き、
今では聞けない、店長の威勢のいい口上が店内に響きます。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。
毎度ありがとうございます。・・・・・
パチンコは一に粘り、二に頑張り、三四がなくて、
五に頑張りと申します。」云々。
当時は、あきらかにプロとわかる方とか、ロックバンドで
エレキを引いていて、小遣い稼ぎをパチンコでしている人とか、
ヤクザのお兄さんとかが普通にいました。
パチンコ台の半分は手打ちなので、エレキのお兄さんは、
ため打ちといって、不調の時に、数十個の玉を一気に
打ち込んだりする技をもっていました。
ため打ちは釘を痛めたりするので、当然、禁止されています。
なので、頻繁に使うのではなく、ここぞという時だけやるのです。
エレキのお兄さんの強靭な親指の破壊力はすさまじく、
当然のように勝っていましたし、
彼の後ろには店員も含めていつもギャラリーが
出来ていました。
また当時は打ち止めといって、出玉が一定量に達すると、
店側の判断で、その台を終了させることができました。
打ち止めにすることは、打ち手の目標でもあったのです。
また打ち止めした人は一旦精算すれば、再度打つことは可能です。
まだパチンコで家を建てたとか、車を買ったとか、
そんな景気のいい話もちらほら聞こえてくる時代でもありました。
ヤクザのお兄さんは、店側に嫌がられているので、
いつも突然僕の台の皿に玉をジャラジャラと入れて、
自分の出した玉をカウンターで交換してくれと
言うのでした。
なぜか、いつも出玉はたいしたことはないのでした。
まさに懐かしく遠い昭和なのですが、僕は
将来どうするとか全く考えることもなく、
漠然とその状態が永遠に続くような気がしていました。
パチンコで勝てなかったときの厳しい自己ルール
ただ、お金がない僕はパチンコに対しては厳しいルールを
課していました。
それは、もし負けた場合、次の日が雨でなければ、
日雇い労働をするということです。
高田馬場近くの公園に仕事を求めて、
日雇い労働者が集まります。
そこに手配師が来て声をかけるのです。
相場は日給8千円ぐらいだったと思います。
集まった人たちの中には、栄養失調のために
よく歩けないぐらいの人も結構いました。
まさに、ここは社会の底辺、敗戦直後の日本かと
思うようなところでした。
手配師は働けそうもない人には、当然声をかけないのですが、
その人たちは必死で仕事を貰おうとアピールします。
この世界に初めはぎょっとしましたが、
慣れれば、別にパチンコ屋と大きな違いが
あるわけでもなく、僕はすぐに慣れました。
ただパチンコ屋にくる人は、ある程度の
お金をもっていますが、高田馬場の公園に
どこからともなく現れる人たちは、
その日の生活がかかっていました。
僕は体力も力もありませんでしたが、
疲れたおじさんたちの中では若かったし、
手配師にも顔を覚えて貰っていたので、
仕事にあぶれることはありませんでした。
ちなみに、こうした日雇い労働は、
雇用契約書など当然ないし、
名前すら聞かれることはありません。
改札を強行突破
そんなある日のこと、京王線の稲田堤あたりの
仕事に行ったときのことです。
10人以上は一緒にいたと思うのですが、
弱い僕は、流されるままに堂々と無賃乗車をしてしまいました。
乗るときは最低料金の切符を買ったと思います。
駅について精算しなければと思っていたのですが、
おっさんたちは、「うおー」とか
意味不明の声をあげながら、
階段を駆け下りて、その勢いで改札を突破していったのです。
当時は、自動改札などはなく、駅員が切符を確認して
受け取る方式でした。
これは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」の電車版です。
駅員は完全にあきらめていて、半分口をあけて、
あぜんとしています。
そこを、迫力あるおっさんたちが、次々と、
まるで檻からでる猛獣のように突破していきます。
結局、僕もその流れのままに、気がついたら
改札を突破していました。
そして仕事を真面目にする
仕事は基礎工事が終わり、土が盛られたところを
平らにならしたり、不要なコンクリートの塊を
除去したりするもので、それなりに大変でした。
またよく見ると、働いている日雇いの人たちは、
知り合い関係である場合はなく、それぞれ
孤独な状態でした。
それでも声をかけあって、自然に仕事の段取りは
出来ていきます。
どこの世界でもそうですが、仕事を仕切ってくれる
人が必ずあらわれます。
僕は一輪車で土を運んだり、井戸のように深い穴にある
瓦礫のようなものを運び出す作業をしたりしました。
やたら声が大きく、張り切った感じのおっさんが、
中に降りて、バケツに瓦礫を入れます。
僕は、滑車をつかって、そのバケツを上げるのですが、
重くてやっと持ち上げることが出来るぐらいでした。
すると、下からおっさんが言います。
「はは、下のほうが楽なんだよ。」
僕がバケツを上げるのに時間がかかっていても、
誰も助けてはくれません。
しかし、そのうちに、クレーン車が来て、
その作業をやることになりました。
初めからやれよと、その時は思いました。
それにしても、いろんな人がいました。
お昼になり、スーパーで買ったような
草餅を食べている人がいました。
昼に草餅を食べるのが珍しいので覚えているのですが、
その方は、マレーシア人でした。
見た目は日本人と何ら変わらず、日本語も普通に話していました。
それにしても、その草餅は、2,3日たったものでは
ないかと思え、乾燥していて、とてもまずそうに見えました。
たぶん、お金がないので、古い草餅をスーパーで貰うか、
安く買うかしたものなのです。
また、おっさんたちの会話の内容といえば、
競輪、競艇の話ばかりでした。
おっさんたちは、決して、日雇いの自分の状況を
打破して、よい生活をしたいなどとは考えません。
競輪、競馬でお金を稼いで、刹那的な欲求を満たしたいだけなのです。
女の話はなかったと思いますが、
ふと気づくと、一見真面目そうに見えるおっさんが、
近くを通った主婦の方に小声でこんなことを話していました。
「奥さん、暇だったらいつでもお相手しますよ」
僕は、それまで岡林信康さんの山谷ブルースから
こうした世界を想像するだけだったので、
彼らのその日暮らしの生き方が
新鮮に映ったのでした。
そしてピンハネを間一髪でかわす
その日の給料は手配師から渡されるのですが、
ピンハネはその時に起きました。
実はその時、金を渡したのが手配師なのかどうか不確かです。
というのは、そのお金を渡した人も同じようにその日働いていた
印象があるからです。
もしかすると、手配師の代わりに渡す人だったかもしれません。
お金の入った封筒には、本来8千円あるべきところ、
7千5百円しか入っていませんでした。
「おい、500円ピンハネしただろ!」
と、あるおっさんが言いました。
お金を渡した人は、何かぶつぶつ言いわけにならない
つぶやきをしていたような気がします。
僕は頭の中で、10人いるから5千円を懐に入れたんだと思いました。
そして、あっけないほど簡単に、それぞれ500円の追加支払いを受けました。
これは気がつかなければラッキーという、
単純なピンハネ作戦だったようです。
僕がピンハネされそうになった話はこれで終わりです。
それにしても、相当昔のことなのに、実に鮮明に覚えています。
ブログを書いていると、これからもいろんな事を思い出しそうです。
20181123 by okkochaan