最近、僕が気になる言葉が「リテラシー」です。

 

僕自身、読者の方からリテラシーが低いとご指摘を受けもし、批判されたことで妙に嬉しかったりしたこともありますが、僕の方から「リテラシー」という言葉を使ったことはありませんでした。

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僕は、言葉というものは、その意味するところが個人個人で微妙に異なると考えています。

 

例えば、僕にはある状況にあると必ず方言のようなものが出てくる時があります。

 

これは、かなりプライベートな領域に入ってくるので、あまり面白い話にはならないだろうと思いますので、ここでは語りません。

 

しかし、こうしたある条件がそろうと、かならず方言(正確に言うと僕自身がアレンジした独自の言い回し、もしくはモノマネのようなもの)が出てくることを観察しました。

 

何度かそうした体験をしてきて、不思議に思っていたのですが、結局、その時の僕の感情や言葉を発するという行動を通じて、大げさに言うと僕自身のアイデンティティーを確認したり、その言葉でしか表現できないものを表現するために僕が選んだ表現方法だと考えています。

 

ちょっとわかりづらいかもしれません。

 

具体的に書けばいいのですが、あまりにも個人的なことなので、言葉も含めて卑属な表現になることを恐れて、ここではやはり書きません。

 

 

たぶん、小説などのほうがうまく表現できると思っています。

 

 

いずれにしても、僕は自分が愛着がある言葉でなければ使わないので、「リテラシー」という言葉は使ったことがありません。

 

しかし、主にネットの世界でという印象ですが、「リテラシーが低い」といって相手を論破しようとする書き込みなどを多く目にするようになりました。

 

そこで、あまり縁のない言葉ではありますが、簡単に語義を確認しておきたいと思います。

 

その上で、リテラシーが低いとか情報リテラシーとは何かとかについて最低限の理解をしておきましょう。

 

なお、語義については、Wikipediaに詳しい解説がありますので、ぜひ参考にしてみてください。

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リテラシーとは何か、リテラシーが低いとは?

 

 

リテラシーとは英語で、literacyであり、つまり識字(字が読める)のことです。

 

ここから、意味が派生してきて、ネットなどで「リテラシーが低い」という指摘をする場合は、情報リテラシーを指している場合が多いと思います。

 

まずは、以下Wikipediaから引用させていただきます。

 

情報リテラシー(じょうほうリテラシー、information literacy)とは、情報 (information)と識字 (literacy) を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。「情報活用能力」や「情報活用力」、「情報を使いこなす力」とも表現する。したがって情報リテラシーとは、情報を主体的に選択、収集、活用、編集、発信する能力と同時に、情報機器を使って論理的に考える能力が含まれている。”情報=IT”との連想やインターネットの利用時において情報リテラシーが要求される等の理由から、しばしばコンピューターリテラシーと混同される。しかし、以下に定義されるように、本来必ずしもコンピュータと直結するものではない。

アメリカ図書館協会が1988年に発表した最終報告書は、情報が必要とされるときに情報を”効果的”にそして”効率的”に(1)探し出し、(2)精査し、そして(3)使うことができる能力を保持する人のことを情報リテラシー能力を保持している人と定義する

 

 

この(3)の情報を使うことができる能力が重要だと思いますが、さらに、内田樹氏によれば、情報の正否を見分ける能力のことではないといいます。

 

 

情報の正確さは、リテラシーのほんの第一歩というにすぎず、さらに虚偽の情報からさえ情報を得る能力であると言及しています。

 

 

精度の低い情報や、虚偽の情報からでさえ、私たちは「精度の低い情報を発信せざるを得ない必然性」や「虚偽の情報を宣布することで達成しようとしている功利的目標」を確定することができる。

 

「主観的な情報操作や歪曲はそのつど間主観的に構造化されている」がゆえに、それらもまた「きわめて重要な情報」であることに変わりはない。
そして、私自身による情報の選好や操作もまたまたそのつど間主観的に構造化されているがゆえに、その検討を通じて、私たちは「私自身の知がどのように構造化されているか」を知ることができるのである。
情報リテラシーとはそのことである。

 

命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家たちによる「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。
それと同じく、情報リテラシーとは個人の知的能力のことではない。「公共的な言論の場」を立ち上げ、そこに理非の判定能力を託すことである。

 

情報リテラシー問題は実は「情報の精度」にかかわる知力のレベルの問題ではなく、「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というすぐれて「政治的な問題」なのである。

-内田樹の研究室「情報リテラシーについて」から引用

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リテラシーを超えるもの

 

 

以上から「リテラシーが低い」とは情報が間違っていたり、曖昧であるという一般的に信じられている語義ではないと思えます。

 

そういえば、ネットビジネス関係の情報商材のセールスレターでも、リテラシーという言葉はほとんど使われていないと思います。

 

最後に、リテラシーという言葉とどう付き合っていくかについてですが、僕は当面、使うことはやはりないだろうと思います。

 

別に「リテラシーが低い」と言わなくても、あなたの情報は間違っていると言えば十分だからです。

 

新しい価値や新しい美の発見であるとか、とにかくこれまで認識していなかった価値を語るときに、既存の言葉ではどうしても表現できないときに初めて、独自の表現や新しい形容詞が生まれると思いますが、自分になじまない言葉を無理に使うことほど滑稽なことはありません。

 

ただし、より生活に密着した「情報リテラシー」が低い場合、それは情報弱者となり損をすることもあると思います。

 

例えば、ネットで商品を買ったほうが安いとなんとなく思っている人もいらっしゃると思われますが、昨日僕は、法事のお返しを検討していて、ギフトショップとネットスーパーで同じ商品をチェックしましたが、最も安かったのはスーパーで、それも半端な安さではありませんでした。

 

そんな細かいことを気にすることはないかもしれないし、気づかなければそれまでのことではあります。

 

ただ、一つ言えると思うのは、リテラシーが低いと言われてもしかたがない、基本的な事実確認に少しだけ誤認があったとしても、それだけでその意見が傾聴に値しないと考えることは、情報リテラシーが低い行為となるということです。

 

その情報が全体として正しく根拠がある場合に、その本質を外した意見は無意味でしかないし、また明らかに間違っている場合にも、その間違いの原因まで見抜ける力がリテラシーが高いということになるからです。

 

従って、リテラシーの多くの部分はコンピューターでのチェックで済むことでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

 

リテラシーの情報の正確さの部分だけをクリアしても、それはそれで大事なことではありますが、なんらクリエイティブなところはない。

 

むしろ細部の確認ばかりで、重要事項や本質を外してしまうかもしれない。

 

したがって、内田先生のおっしゃる「情報についての情報を生み出す『集団知』に帰属しているか、していないか」というのは情報リテラシーの問題なのかもしれませんが、僕にとっては、あまり興味をそそる問題ではありません。

 

「古池や蛙飛び込む水の音」の句は集団知を構成する平準な単語だけで創られているにもかかわらず、全く新しい価値と息吹を日本語に与えました。

 

理屈よりは情感を、大問題よりは卑近なしようもない問題に取り組んで生きていきたいと僕は心底思っているのです。

 

20170618 by okkochaan