こんにちは、このところブログをサボっているおっこちゃんです。

 

僕は政治について書くことが多いのですが、それは、多くの現政権に危機感を覚えている方と等しく、安倍政権が目指している憲法改正案とか個人情報や表現の自由が担保されない社会に賛同できないからです。

 

僕は庶民感覚に根差した意見を書こうと思っていて、また本質的な問題に少しでも踏み込めればと思っています。

 

本日は、愛媛県の面会記録が農水省で発見された下記の記事とこれまでのモリカケ問題に関係者が費やした膨大な時間について、いったいこれら一連の事件の本質はどこにあるかについて、僕の率直な考えを書こうと思っています。

 

柳瀬氏と愛媛県の面会記録、農水省でも発見
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20180412-00000098-nnn-pol

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与野党双方からあがっているウンザリ感

ほぼ毎日のようにあがってくるモリカケ問題についての新たな資料などについて、野党は攻勢を強めていますが、僕はモリカケ問題については、与野党双方にウンザリ感があると考えています。

 

そのウンザリ感は、閉塞感といってもよく、国会での話はかみ合わず、またこのところ、政府は一連の問題について次々とあがる不利な資料を前に防戦しつつもウンザリしているように思います。

 

野党についても、森友問題での佐川氏の証人喚問に見るように、せっかくの証人喚問をしながらも刑事訴追を受けているという理由で証言を拒まれ官邸からの指示についてのみ明確に否定したことに対し、それ以上の訴求が出来ないでいます。

 

その佐川氏については、「公文書の改ざんを認めつつも、要点は踏まえている」という理由で大阪地検特捜部は立件しないことを決定しています。

 

つまり、国民にしてみれば、何かあったのだろうとほとんどの人が思いながらも、これ以上の訴追が出来ない状態になってしまいました。

 

結局、主権があるはずの国民が安倍政権という権力に負けた形です。

 

しかし、間髪を入れずに出てきたのが、「柳瀬氏と愛媛県の面会記録、農水省でも発見」というニュースです。

 

そして今度は森友問題の佐川氏役が柳瀬氏に変わっただけで、また同じ類の問題が出てきました。

 

結局、日本に民主主義は根づかないのか

この頃はやりの言葉に「情報操作」とか「偏向報道」とかの言葉があります。

 

安倍首相が朝日新聞に対して「偏向報道」と発言しているので、安倍首相を支持する方々や支持が多い若い世代の方の多くもそれを踏襲しています。

 

その代表的な論拠は、情報収集をテレビや新聞からしかしないシニア世代と比較して、若い世代はSNSとかスマホから得られる多方面からの情報収集をしているので、偏向報道を信じず、いわばより客観的かつ実際的に問題をとらえているというものです。

 

しかし、僕はこれにはかなりの疑念があります。

 

ひとつは本質的な疑念であり、もうひとつは、テクニカルな疑念です。

 

本質的な疑念は、そもそもこれまでの思想家たちを考えても、偏向していない人などいないのではないかということです。

 

もちろん偏向報道の意味はある特定の事件をとらえて報道する、例えば安倍政権に批判的な新聞であれば自己の主張を展開するのに有利な内容のみ報道し、不利なものは取り上げないことを指します。

 

もしも、やり玉にあげられているジャーナリズムがその通りであれば偏向報道と言えるかもしれません。

 

一方で思想家はより深く物事を観察し思想を醸成してのアウトプットであるので、意味が違うという反論があると思います。

 

ですが、僕は新聞などがある信念や信条をもって報道にあたることは当然に必要なことだと考えています。

 

逆に言えば、偏っていない報道とは、意見のない報道ともいえるので、非常に退屈なものでしかないし、事実を客観的に報道するということが報道機関の第一義であるということにも疑問があります。

 

つまり報道機関と思想家との違いはないと考えているのです。

 

テクニカルな疑念としては、そもそもSNSに新聞・テレビを上回るどれほどの信ぴょう性があるのかということです。

 

SNS一般を批判しているのではありませんが、一般的に現政権はSNSに強く、野党は弱いという「偏向」があります。

 

そして、入ってくる情報はまさに玉石混交です。

 

僕がこうしたことを考えて思うことは、日本にはついに民主主義は根づかず、まぼろしなのではないだろうかということです。






反論を許さないタテ型社会が厳然として存在する恐ろしさ

日本人を説得するのに最も効果的な言葉は、「みんなやっているよ」という言葉だと最近聞き、なるほどと思いました。

 

これは、船から海に飛び込むときの説得の言葉で、国民性があらわれているという話なのです。

 

ちょっとうろ覚えですが、覚えている限りでいえば以下のようなことです。

 

イタリア人: 美女が海に飛び込んだらしい

ロシア人: ウオッカの瓶が流された

アメリカ人: 今飛び込めば君は英雄だ

 

そして、日本人は、「みんなもう飛び込んだよ」なのです。

 

また日本では人気の旅行ツアーですが、フランスではツアーを組んだ旅行など立てても誰もいかないそうです。

 

このように、人の振り見て我が振り直せではありませんが、島国で閉鎖的な環境でずっと暮らしてきた我々日本人には、自分の意見を展開することより、自分の所属する組織だとか家族だとかの力がある人間がどう考えるかとかに対して、より注意を払って生きてきました。

 

常に内容よりも、こうしたことが重視される傾向があることは、多くの方が認めるのではないでしょうか。

 

日本社会に蔓延している閉塞感

最近、いろいろな領域で、若い世代が活躍していることはご存知の通りです。

 

これは素晴らしいことなのですが、一方で格差社会は広がる一方だし、夢が持ちずらくなってきたような気がします。

 

そしてこれが閉塞感につながり、江戸時代の「蛙の子は蛙」という言葉を連想させる「貧困の連鎖」が現実に起きています。

 

自分でかなわないのであれば、せめてそれを実現している人として、英雄となった若い人にエールを送るのですが、それは言うまでもなく代替行為なのです。

 

モリカケ問題についていえば、隠す必要のないことまで安倍首相の言葉との整合性を気にして、忖度とか公文書書き換えまで行っている「偉い人たち」をみて、若者は夢をいだけるだろうかと心底思っています。

 

やっかいな事態は、決定的な言質を取られないように振る舞えば結果(出世とか)がついてくる、「君も僕と同じようにうまく立ち回りなよ」と言わんばかりの状態とか、選挙で選んだのだからデモなんかするなとか、ともかく、あまりにも夢がなさすぎの閉塞感が絶望的にあります。

 

世界を見渡しても日本人ほど仮想通貨とかFXに夢中になっている国民はいません。

 

日本人にとって転職がリスキーであることも変わらないし、一部の転職成功者の陰には多くの失敗者がいることは自明です。

 

であれば我慢するしかない、サラリーマンである以上、上司には従わなければならない、忖度しなければならない、必要があれば身を挺しても会社とか上司を守らなければならない、そうでなければ、自分は社会的に抹殺される、こんな思いを多くは潜在的にいだきながら生きる日本社会に夢がないのは当然ではないでしょうか。

 

アメリカであれば根本的な価値観が違うので、「正義はなされた」ということを最重視すると思います。

 

しかし抽象的な話が苦手で周囲を互いに常にみている日本社会にあっては、どだい民主主義というのが絵に描いた餅だったのかと思ってしまいます。

 

20180413 by okkochaan