ヒヨコ 飼う 失敗

これは、だいぶ昔の話、まだヒヨコがお祭りなどで一羽10円で売られていたころ、ヒヨコを飼って失敗した苦い思い出です。

 

ヒヨコをお祭りで買えるのがわかるのは、ある程度の年齢の方だと思います。

 

黄色くふさふさとした羽毛でよちよち歩き、飼い主を親だと勘違いしてくっついてくる様子はなんとも愛くるしく可愛いものです。

 

その可愛さについ買ってしまった僕が、数十年たって、いまだに自責の念にかられる思い出なのですが、無責任な飼い主のために迷惑をこうむっている人たちとか、何よりもペットそのものの被害を防ぐためにも、あえて書いておくことにしました。

 

ヒヨコの飼育は、エサと水、温度、外敵から守るための小屋などさえしっかりしていれば、さほど難しいことではありません。

 

10円で小さい箱につめて売られていましたのは、白色レグホンのオスでした。

 

くどいようですが、ヒヨコの可愛さは、金魚や亀の比ではなく、当時ほとんどの子供は見るなり欲しがったのではないでしょうか。

 

もちろん、親にとめられて買って貰えないわけですが、なぜか僕は買ってもらうことが出来ました。

 

たぶん、3羽だったと思うのですが、1羽はすぐに死んでしまい、2羽が成長しました。

 

さて、問題はここからです。

 

もしかするとご明察されている方もいると思いますが、ヒヨコというのは、小さいときこそ可愛いのですが、少し大きくなると全く可愛げがなくなります。

 

その上、慣れているというより、誰に対して同じ態度で単にあまり警戒しないだけです。

 

一日中、何かしら食べようとしていて、僕は主に食べられる草を刈ってあげたり、たまにはカエルやミミズなども食べさせていました。

 

親は珍しく、人に頼んで、飼育用の立派な小屋まで作ってくれたのですが、今もって、どうしてそんなことまでしてくれたのか不思議でなりません。

 

僕はずっと犬が欲しかったのですが、どうしても許して貰えなかったので、その代償だったのかもしれません。

 

結局、フツーのニワトリで、白くて可愛げも愛想もなく、大きくなるにつれ、僕は完全に飽きてしまいました。

 

そうなるとニワトリの世話をするのも、もはや嫌な義務でしかありません。

 

特に小屋の糞の掃除をするのが嫌だったことを覚えています。

 

ニワトリをみても、世話をされるのが当然という顔をしているようにすら見えてきます。

 

僕は、あの可愛いヒヨコがどうしたら、こんな憎たらしいニワトリになるのか、そのギャップはちょっと大きすぎるんじゃないかと思いました。

 

もちろん、そんなのは飼い主の勝手な言いわけであると今ではわかっています。

 

しかし、子供は飽きっぽい面もあると思います。

 

あたかも、おもちゃに飽きたように、僕にとってニワトリは負担となりました。

 

もっとも、初めのうちですが、1羽はもしかしたらメスではないかと少し別の期待もありました。

 

つまり、卵を産んでくれるのではないかという期待ですね。

 

もう一羽はトサカも堂々とした見るからに雄鶏なのですが、もう1羽は、トサカがあるにはあるのですが、色も薄いからです。

 

結局、正確に調べたりしませんでしたが、卵も産まなかったし、おそらく半陰陽に近いオスだったと思っています。

 

それからのことは、ちょっとうろ覚えの箇所もあるのですが、何らかの原因でオスっぽい方が死んでしまい、色の薄い方だけ残りました。

 

色の薄い方は鳴きもしなかったので、うるさいことはありませんでしたが、可愛くはありませんでした。

 

そんなある日、母親が何を思ったのか、鶏を肉屋に売ってしまったらどうかと言いました。

 

今では考えられませんが、当時はこうした直接の売買ができたようです。

 

僕は、少し気持ちが揺れましたが、可愛くないのと、何よりもこれで嫌な小屋の糞の掃除も毎日エサをやり水をとりかえたりする必要もなくなるんだという気持ちの方が勝りました。

 

そして、さっそく母親と一緒に近くの肉屋に色の薄い鶏を持っていきました。

 

なりゆきから僕はドナドナの歌が脳裏にありましたが、鶏のほうは自分に何が起こるかも全くわからず、悲壮感も悲哀もなく、いつもの何も考えていない鶏の眼付をしていました。

 

肉屋のおかみさんは、手際よく秤に鶏を載せて目方を計りました。

 

カゴから出した鶏は素直に秤に乗ったので、すぐに結果はわかりました。

 

おかみさんは、すまなそうに「300円にしかなりませんが、本当にいいんですか?」と母親に対して言いました。

 

「いいですよ」と母親は即答しました。

 

その時、秤に乗っている鶏が僕の方を見ていました。

 

いつもの、何が起こっているかもわからない普通の鶏の目つきだったのですが、僕はその無知ゆえに鶏が可哀想になり、「いや、ちょっと待ってください」と言いかけました。

 

しかし・・・

 

僕は結局、その言葉を飲み込み、背後から鶏の視線を感じながら、何も言わずに母親と肉屋をあとにしました。

 

僕は偽善者かもしれません。

 

けれど、あの時、僕は鶏を助けられたのに結局なにもしなかったという思いは、そのあとずっと後を引いていて、時々思い出しては、鶏にあやまっているのです。

 

可愛いだけでヒヨコを買って、大きなって醜くなったら肉屋に売るなんて最低の行為ではないかと何度も考えました。

 

あの何も考えていないようでありながら、秤の上から心細そうに(と僕には思えた)僕を見つめていた鶏の目を僕は忘れることができないのです。

 

僕は動物が好きなので、当時は鶏を肉屋に売ってから、親が知り合いからチャボ(ニワトリの一種で羽毛が美しい)のつがいを貰ってきてくれました。

 

チャボはしばらく生きましたが、雛がうまれることもなく死んでしまいました。

 

両親は不思議なことに鳥に関してはやけに寛容で、ウズラを飼ったこともありますが、ウズラはすばしっこくて全くなつかない鳥なので、小屋を開けたちょっとしたすきを見逃さず、逃亡してしまいました。

 

そして、僕は今、念願の犬を飼おうと希望しています。

 

行政で行っている殺傷処分になる犬を飼おうと思っています。

 

その時の規準は絶対に可愛さではないと思っていて、犬と対面してお互いにピンと来るものがあるかどうかを基準にしようとしています。

 

ヒヨコに限らないと思いますが、ペットを飼うときは、ペットの寿命、成長した時の状態、それに自分の生活設計とか自分自身の寿命とかをしっかり考える必要があるし、自分に万一のことがあった時のことまで考えるべきだと強く思っています。

 

20190929 by okkochaan