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多くの日本人の方は、いまでも、家族とか複数のかたと食事をするときなどに「いただきます」と言っているのではないでしょうか。

 

ここで僕は、「あなたは、いただきますの意味を考えたことがありますか?」などという僕らしくない偉そうなことを語るつもりはありません。

 

そうではなくて、「いただきます」の意味について、僕の浅い知識のために勘違いをつづけ、母との間で滑稽なバトルまであった出来事をなるべく面白くお話してみたいと思います。

 

あと、ちょっと思ったことですが、もしこのバトルがあった当時、ググることが出来たら、このような愚かなバトルはしないですんだろうということです。

 

僕は、ググる習慣を身に着けたために、多くの偏見から逃れることが出来、いろんな知識や考え方に接することが出来るようになりました。

 

いただきますの意味についても、「いただきます 意味」と打ち込めば、基本的なことは即座に知ることができます。

 

いただきますの意味をめぐっての、母との愚かな無言バトルも、もし当時ググって検索さえしていれば避けられたと強く思います。

 

まだググることがクセになっていない方は、スマホがあればすぐにできるので、ぜひ身に着けて欲しい習慣です。

 

とはいえ、「いただきます」の意味について、これからの話のキモになることなので、ごく簡単に説明します。

「いただきます」の二つの意味

「いただきます」の意味は、おおきくわけて2つの意味があります。

 

意味1.プロセスへの感謝。食事が目の前にあるまでのプロセスにかかわった人すべてへの感謝の意をあらわす。
(農家や漁業にたずさわった方、流通の方、料理を作ってくれた方などが対象)

意味2.命への感謝。命をいただくということで、食材そのものが持っていた命への感謝。

 

なお、「いただきます」というのが、定着したのは、決して古い話でないことははっきりしていて、どうやら太平洋戦争のころからのようです。

 

そうなると、軍国教育という観念がちらついて、ちょっと嫌な気持ちになりますが、その感情はここではおいておきます。

 

では、いただきますの意味をめぐって、母と僕のあいだであった無言バトルの話にいってみます。

 

「いただきます」の意味をめぐっての母と僕の無言のバトル

当時、父が亡くなり、母は一人暮らしをしていたために、僕は、週末は一人で母の家に行き、一泊して帰るという生活をしていました。

 

母は、即物的な価値観をもっていて、空想するとか考えるとかにはあまり縁がなく、おまけに、息子である僕の心情に思いを致すなどということはないので、子供のころから、僕が悩んだりしていても全く気がつかない人でした。

 

それは、母が僕に愛情をもっていなかったということではありません。

 

しかし子供のころから、何か相談したり、あるいは心配されて話かけられたりという事が皆無であり、それが当たり前と僕は思っていました。

 

そんな状態なので、家に行っての会話もほぼなく、「最近お体の状態はどうなの?」とか聞くことも聞かれることもなく、僕は無意識に馬鹿な息子を演じ始め、自動的に母の田舎言葉の真似を限られたフレーズで使い、定型文の会話だけをしていたのです。

 

ちなみに、母の田舎言葉の真似は簡単で、母は語尾に「どな」とか「だどな」とかつけるので、僕もそうしていました。

 

僕に会うと母が真っ先に聞くのは、「ご飯は食べたのか?とか明日の朝はご飯を食べるのか?」ということであり、あまりにも同じことを毎回聞かれるので、「他に話すことないのかよ」と僕が言うと、さすがに母は笑いながら、それでも「でもほかに話すことがないどな」と言うのでした。

 

こんな親子でしたが、お互いに愛情をもっていたのですから、不思議だなと思います。

 

家族とは恥ずかしいものですが、その面が強くでていたのでしょう。僕が、「どな」とか「だどな」とか語尾につけて母の真似をするのも、その羞恥心を隠すためのものだったのです。

 

会社には、すべてのことを事務的にしかとらえられない人が必ずいますが、母はまさしくそのようなタイプであり、イレギュラーな出来事への対応能力はゼロでした。

 

もちろん本当に事務能力が高い方は、より効率的かつ正確に仕事をこなすために、常にプロセスを検証し、改善しています。

 

ですが、母の場合は、そのような素晴らしい事も一切なく、単に決めたことを実行するだけでした。

 

例えば、ご飯を炊く場合に、昔の釜だと炊きあがってからかきまぜて15分は放置してむらします。

 

しかし、現代の炊飯器はその機能も合わせてもっているものがほとんどなので、その作業は省いて構わないのですが、母はその15分にかなりこだわり、やむを得ず10分で食べ始めるときなどは恐怖心すら覚えていました。

 

そのため、姉と3人でご飯が炊きあがってから、特に会話もなく、ただじっと待っていた15分の長さを僕は今でもよく覚えています。

 

また、プロ野球を見るのが好きで、ジャイアンツファンでしたが、野球のルールなど全く知らないのでした。サッカーについては、興味をもっていませんでしたが、たまにテレビでサッカーが写ると「かけっこ」つまり、走りを競う競技だと思っていたほどです。まあ選手たちは確かにボールをめがけて「かけっこ」をしているんだけどと思いつつ、僕は何もいわないでいました。

 

長くなりましたが、少しは母の像が描けたでしょうか。

 

いろいろ考えると、母が必ず真っ先にご飯は食べるのかと聞くことも事務処理上の手続きにすぎないことがわかります。

 

さて、そんな母に対して、僕は、食事の前に必ず「いただきます」と言っていました。

 

すると、母は、「はい」と答えます。

 

当時僕は、「いただきます」とは意味2.の命への感謝が本当の意味だと思っていたので、どうして母は「はい」と答えるのか、これでは、僕が母に対して「いただきます」と言っていることになるのではないかと少しイラつきながら思いました。

 

なにしろ、毎度の食事のたびに「いただきます」と「はい」が繰り返されるのです。僕は、意味2.の命への感謝で「いただきます」と言っているのであって、母が料理を作ってくれたことへの感謝で言っているのではなかったのです。

 

話が変わりますが、そのころ、定食屋で食事をしている親子の話が話題になりました。

 

子供が「いただきます」というと、母親が、「お金をはらっているんだから、いただきますと言う必要はない」と言ったことです。

 

その子は学校で「いただきます」というように教育を受けたのだと推測されるし、母親のほうは、「いただきます」を料理を作った人への感謝の気持ちと限定して使っていたと思われます。

 

当時、なげかわしい出来事として話題になり、母親の無知が非難される風潮でしたが、意味1.のプロセスへの感謝をさらに料理を作った人に限定して考えれば、間違いとは言い切れません。

 

いずれにしても、母との食事は必ずそのように進んでいました。

 

そして、ある朝、いつものように、母が食事の直前に姉が作って大量にあるラッキョウの酢漬けを決まり通り2個だし、いつものように僕にそのラッキョウの酢漬けを食べるかと聞き、僕がいつものようにいらないと答えた朝に、僕は、「いただきます」と言わなくなりました。

 

僕の母も姉も料理は極端に下手で、そのラッキョウの酢漬けは、もし我慢して食べ続けると、酢漬けそのものが嫌いになってしまうと思ったからです。

 

子供の時に、古い油でドーナツを作り、そのしつこさから大好きだったドーナツを見るのも嫌になった経験が僕にはあり、ラッキョウもこんな下手な料理のために嫌いになりたくなかったのです。

 

もちろん姉よりは母の方が料理の経験も知識も上でした。母の場合は、料理レシピのノートを几帳面にとっていましたが、レシピ通り以外の方法で工夫してみたりすることは皆無でしたが。

 

それでも母は味は良く分かったので、そのただ酢にラッキョウを浸しただけで酢漬けと称しているシロモノをまずいと思っていたはずですが、昔の人らしく、食べ物を大事にする面もあり、我慢していたに違いありません。

 

毎回、僕に食べるように勧めるのも、早くこのくそまずいラッキョウを食べてしまいたかったからに違いありません。

 

「いただきます」の意味を、出された食べ物の命への感謝ととらえていた僕は、「いただきます」と言わず、ただだまって食膳に手を合わせて食べるようになりました。

 

もちろん、母に対して、「いただきます」の本当の意味はいただく命に対しての感謝の言葉なんだとかは言わずに、その後もただ手をあわせてから食べ始めていました。

 

母からは特に何のリアクションもありませんでした。ですので、これが無言のバトルだというのは、間違いかもしれません。

「いただきます」のグローバルでの意味

さて、話は以上ですが、「いただきます」の意味について、グローバルな視点でみると大きく2つの意味があることに気づきましたので、ついでに書いておきます。便宜上、G意味とします。

 

G意味1.狩猟民族型:英語のレッツイート(さあ食べよう)とか、フランス語のボナパテ(いっぱいお食べ)というように、獲物を洞窟に持ち帰り食べるというイメージの言葉。

G意味2.農耕民族型:日本の「いただきます」のように人や命に対して感謝の意味がある言葉。
ちなみに、大勢の食事会などで大声で「いっただきまーす」という場合は、G意味1.の意味になるかと思います。

 

なお、キリスト教で食前に代表者一人が主に感謝の意味を込めた長めの祈りを行なう場合は、G意味2.と思われます。

 

「いただきます」は必要か

「いただきます」の意味について、母との思い出を交えつつ長々と書いてしまいました。

 

ここまで付き合っていただき、ありがとうございます。

 

最後に「いただきます」は不要でナンセンスと感じていらっしゃる方も多いと思われるので、私見を書いておきたいと思います。

 

結論を言えば、僕は「いただきます」は言った方が良いと思います。

 

その理由は、以下の2点です。

 

1.多くの日本人では普通で当たり前のことになっている。つまり習慣なのであえて壊すほどの意味もないこと。

2.声を出す出さないに関係なく、「いただきます」を意味など考えず言ったとして、最低でも脳に対して、これから食べることを認識させることが出来、体が消化する体制に入り、消化酵素の分泌をうながす効果はあると思われること。

 

これに対して、真っ向からナンセンスだと言っている記事がありました。

 

僕とは違う意見ですが、面白いので一読の価値はあります。

 

「いただきます」「ごちそうさま」を言う人は、何も考えてない人

 

この記事の残念なところは、「いただきます」には、誰かに対する伝達の意味以外がある事に全く言及していない点ですが、気持ち良いほどに否定しているところが面白かったです。

 

ただ僕は、何も考えずに「いただきます」と言ってもいいと思うのですが。

 

「いただきます」に限らず、話すことには伝達以外の意味があるし、言葉の起源までたどってみても、むしろ自身の感情の高揚を発声で表現することにあると思います。

 

まあ、有料で続編が読めるようなので、そこにあるのかもしれません。

 

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お読みいただき、ありがとうございました。

 

20210727 by okkochaan