終活 葬式

こんにちは、おっこちゃんです。

 

実は最近、母が他界しました。

 

その中で、強く思ったことを書いてみました。

 

お坊さんの説教が終わり、導師が退場すると、
棺桶を開けてお花をできるだけたくさん詰め込んで、
そして、僕は喪主としての決まりきった挨拶をしました。

 

そして棺桶に釘が打たれ、男たちは棺桶を担いで、
霊柩車に運びました。

 

なにか起きていることが、
スローモーションのような感じで進行していました。

 

僕は、白木の位牌を手に霊柩車に乗り込みました。

 

そして、霊柩車のクラクションが長く鳴り渡りました。

 

葬儀場は、母が生まれ育った街でもありました。

 

ふと見上げると、通りの向こう側の家々の屋根が、
昔風の瓦ぶきなのでした。

 

全体に少し放心状態でもあったので、
その古い瓦ぶきの屋根が、
タイムスリップしたかのような
錯覚をおこさせました。

 

僕は、突然、少女時代の母はどんな様子だったのだろう、
何が好きで、何が楽しかったのだろう、
母も、親に甘えたり泣いたりもしたのだろうかと考えました。

 

 

ここに参列している人のうちで、兄弟であれば、
もしかすると子供のころの母を思ったかもしれません。

 

 

しかし、子供である僕は、母の少女時代など、
こんなに長く生きていたくせに、
今まで一度も考えたことすらなかったことに気づきました。

 

 

僕は小さいころの母がどんな子供だったかなど、
本当に考えたことがなかったのです。

 

 

この想念は僕に衝撃を与えました。

 

 

そして、突然、いいようのない悲しみがおそってきました。

 

 

人間とはなんと孤独なものなのだろうと思ったのです。

 

 

僕は、母のほんの一面しか知らないのです。

 

母は、急な発病で1カ月ちょっとの入院であっけなく
亡くなりました。

 

88歳という年齢を考えると、
一般的には大往生と考えられるし、
悲しみという感情とは無縁かもしれません。

 

 

なので、この地方では、長寿を全うした方が
なくなると、それにあやかろうと小銭をまく
習慣があります。

 

 

でも、母のことを本当に知っている人が
どれほどいるだろうかと思い続けました。

 

 

何か業績を残したり、
名を残したりした人でさえ、
あまり理解されることはないだろうに、
母のような平凡な人生を送った人を知る人は、
家族しかいないんだということを、
強く意識せざるを得ませんでした。

 

 

そういえば、昔、ある有名な女優が結婚して、
平凡ってすごいことだ、
と言っていたことを思い出しました。

 

 

僕も、本当にその通りだと思います。

 

 

そして、家族とは何か恥ずかしいものでもあります。

 

 

しかし、人間の出会いとして家族以上のものが、
あるいは親と子という以上のものは滅多にないと
思います。

 

 

家族や親子は、選べないだけに悲しいどうしようもない
面をもっているのですが、それがかえって
人に言えない悲しみを心の中で増幅させます。

 

 

母は晩年はだいぶボケも入ってきていたので、
子供のころのように、僕を愛していたとはいえないかも
しれません。

 

 

しかし、母がいて僕が生まれたことは、
まぎれもない事実だし、
小さいころの僕が風邪を引いて熱を出せば、
心配してくれたのです。

 

 

そんな子供のころは当たり前と思っていたことも、
母がいない今、決して当たり前のことではないと
わかります。

 

 

そんな、僕にとって大切な母はもういません。

 

 

思えば、もっとおいしいものを食べさせてあげればよかった、
ほとんど外出も旅行もしなかった母を目が回るくらいに
無理にでも連れまわしてあげればよかったと
考えても、もう遅いのです。

 

 

だから、もし今、身近な人と、つまらないことで不仲に
なっていたならば、
大急ぎで仲直りしなければならないとおもいました。

 

 

人生は思ったより長く、思ったより短いと思います。

 

 

そして、死の足あとは着実に誰にでも近づいてくるし、
死をまぬがれた人は一人もいません。

 

 

死を前にしての最後のお別れであるとか、
葬式であるとか、
そうしたことは面倒でやっかいだけれども、
散文的に淡々と進行します。

 

 

人はそのおかげで、あるいは悲しみを紛らわすことも
出来るのかもしれません。

 

 

母は、最期まで自分が死ぬとも思っていなかったし、
病名も末期がんと知らせれることもなく、
最後にはとにかく痛みを軽くして欲しいと望んでいました。

 

 

そして、最後にはその痛みからも解放され、
優しい顔で死んでいきました。

 

 

これは、僕にとっては、大きな救いです。

 

 

僕は、一人の人間の存在は宇宙に匹敵するぐらい
広くて深いと思っています。

 

 

だから、どのような平凡に思われる人生であっても、
その宇宙の大きさ広さ深さが小さくはならないと
考えているのです。

 

 

人が死ぬとは、その宇宙が消えることなんだと、
改めて考えました。

 

 

だからといって、死が荘厳でなければならないとは
思いません。

 

 

死は誕生があれば、必ずあるものだから、
生まれることを喜び、死を悲しむのは、
感情として当然だけれども、
当たり前にあることともいえます。

 

 

だから、身近にいる方を大切にしなければと強く思いました。

 

 

 

追記

 

この記事を書いてから、3年が過ぎましたが、
本当にいろいろな方からメッセージをいただきました。

 

 

自分としては、下手な文章でたどたどしく書いた感があるので、
「共感した」とか、「自然に涙が流れた」とか、
僕にとっては、こうしたコメントをいただくのは、
望外の喜びでした。

 

 

そして、世の中には僕と同じような思いをしている方が、
多いことを知りました。

 

 

出来の悪い子供ほど親はかわいいという言葉があります。

 

 

またキリストも「放蕩息子の帰宅」について語っています。

 

 

僕は喪主を務めましたが何もかも初めてで準備もなにもできませんでした。

 

 

最近、身近で亡くなる方が続き、自分のことも含めて終活の必要性を感じています。

 

 

葬儀社についても、いろんなサービスが出てきていますので、
興味があるかたは、以下の記事をご覧ください。

終活は葬儀から考えるのがシンプルで効果的【葬儀社も紹介します】

 

20200325 by okkochaan