終活を行うことにどのような意味があるか
bBearさんによる写真ACからの写真

このところ身内の方の不幸が続いたことが直接的なヒントですが、これまで無視していた終活に興味がわいてきたので、たまにはテーマを絞って書いてみようと思い立ちました。

 

終活という言葉は、2009年ごろに生まれたようですが、それから10年を経て、いまでは一般的な言葉になりました。

 

いくつかの葬式をみていて思ったのですが、亡くなった方が終活をなさっていたかどうかは、葬式に行けば一目でわかりますね。

 

だから終活が良いとか、終活をすべきだとか短絡的なことを言うつもりはありません。

 

まずは、知識を得ることと考えることに徹し、終活が必要だなとか漠然と思っている人の(僕自身も含めて)参考になればと思い、しばらく終活に的を絞って書いてみようと思っています。

 

そのことを通して、何かが見えてくるのかこないのか、それすら今はわかりません。

 

でも、可能な限り本質的な問題を考えてみたいと思っています。

 

この記事では、第一回として現状把握、特に終活ということへの現在の僕の認識について書きます。

 

目次にあるごくごく基本的なことについて書きますので、気になる点だけでもお読みいただければと思います。

 

そもそも終活って何?

「終活」は最近の言葉ですので、しっかりと定義されているかどうかよくわかりません。

 

以下はwikipediaを参考に終活とは何かについて確認の意味で書きます。

 

終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括を意味する言葉である。-wikipediaより引用-

 

さらにwikipediaによると、具体的な活動について3点あげています。

 

3点とは、

1.準備

2.葬儀

3.財産や記録

となります。

 

ここでは、さらに細分化しての解説はしません。

 

ただ、大多数の人が「終活」という言葉からイメージするものと同じだと思います。

 

要は、急に旅立たつことになっても、自分や遺族とかが迷わないように、いろんなことを整理して記録しておくということですね。

 

特に最近多いデジタル遺品などは、遺族にはわからないので、整理しておくなり処置方法などを明示しておくとよいかと思います。

 

しかしながら、終活が人生の総括であるとすれば、こうした事務的な事柄では全く不十分だと僕は思います。

 

事務的なポイントは簡潔にまとめておけばいいし、一気に作り上げる必要もないので、少しずつでも進めておけばよいのではないでしょうか。

 

僕がこの一連の投稿で語りたいのは、本質的な意味での終活、すなわち人生の総括を含めたものとなります。

 

まずは終活を始めたくない理由を知ろう

終活については、なかなか始めない人が多いと思いますが、その理由を考えてみましょう。

 

始めないことには理由があるからです。

 

思うに、これは、意識が時間軸でみると未来に向いている場合が多いからではないでしょうか。

 

自分がこの世を去るのは必然としても、それは遠い未来に必ず起こることと認識しつつも、それを信じたくも考えたくもないわけです。

 

そう考えると、病気や年齢によって身近に感じられてから始める現在の終活にはやむを得ない理由もあるし、それは、病気になって急に健康食品や生活習慣を意識したり、禁煙したりするのと同じです。

 

これは、思考が今日を起点としているので、明日、1週間後、1か月後、1年後、5年後、10年後というように考えるためです。

 

そして、人間は、死の瞬間でさえ希望を捨てたりはしません。

 

これは、考えてみると、割と不思議なことでもあります。

 

つまり、誰だっていつかは死ぬと知っていながら、自分は決して死なないと同時に思っているのです。

 

僕は、これこそ終活を後回しにする、あるいはやらないことの最大の理由ではないかと思います。

 

繰り返しますが、これは自然なことであり、普通のことです。

 

もう一つの理由は、財産も身内もなく、終活に意味も必要も感じないということかと思います。

 

これもだんだんと明らかにしたいと思いますが、僕は誰でも終活をすべきだと考えています。

 

冷静に現状を見て、現状をベースとしてまずは終活をしてみる、状況が変わったら内容を変えていくというのが正しいやり方だと思います。

 

終活を始める理由

終活をするということ、あるいは死を起点として現在や過去を観るというのは、かなり人間的なことと言えそうです。

 

これについて、僕が思いついたことが二つあります。

 

一つは、ピラミッドや古墳など過去の権力者がどうしてお墓にあれほどこだわったのかという疑問です。

 

もう一つは、小説を書く対象というのが、かなりの割合で過去の話であり、100年ぐらい前が題材としてちょうど良い場合も多いという現象です。

 

ピラミッドや古墳については、ここでは言及しませんが、権力の座についたその日からお墓づくりを始めるというのは結構すごいことだなあと思います。

 

ここでは僕にとって話しやすい文学について語ります。

 

いやしくも小説を書こうなどという酔狂なことを考える人間は、自分の生活はもとより時間軸も一般の人とはかなり違っています。

 

わかりやすくするために、枚挙にいとまがないこの手の話で、思いついたものだけでも書いてみます。

 

例1:フランスの文豪バルザックは、自分の書いた小説の登場人物と現実の人間との混同が頻繁にあった。ある日、彼のアシスタントをしている女性が田舎の母が亡くなったので休みを取りたいと申し出た。バルザックは意味が分からない感じでポカンとしていたが、しばらくしてから、「そんな非現実的なことより、現実の話をしよう」と言い出し、執筆の作業に戻り、アシストを依頼したのだった。

 

例2:「八月の光」などを書いたアメリカの作家、フォークナーが小説の舞台にしたのは、100年前の南部社会であった。100年前の世界といえば、すべての方が亡くなったあとと言える。その世界に架空の町を創造し小説にしたフォークナーは、単なる人生の総括を超え、普遍性をもたせて人間の総括をしたと言えます。「八月の光」はあたかも墓標のように燦然と輝いています。

 

例3:太宰治といえば、「人間失格」が代表作である。決して多作ではなかった彼だが、彼の人生を予言するかのような初期の作品に「魚服記」というものがある。最近読み返してみて、その文体や表現がしっかりしている点に驚いたが、これは「人間失格」の圧縮版と言える。考えてみると、太宰治は常に死、それも自殺してこの世から「グッドバイ」する視点から小説を書いていた。つまり太宰治の作家活動とは、「終活」そのものだったといえる。

 

終活とは想像以上に人間的な行為であり、終活を通して自分の人生を考え、そこから現在をより良く生きるためのモチベーションを得るという大きな意味があると言えそうです。

 

なにから始めれば良いのか

なにかと腰が重くなりがちな終活ですが、僕は終活はやりやすいことから始めて、楽しんでやればいいと思っています。

 

将来を考えるという意味では、家を建てるとか就職するとか、婚活、就活と何ら変わらないのです。

 

事務的にやるべきことは、3点なのですが、どれから始めてもいいだろうし、便利なノウハウ本やテンプレートもあると思います。

 

しかし、それらの既成のテンプレートやノートにこだわらず、思いついたことから始めるというのがベストだと思うし、それは小説を書くことに非常に似ているのです。

 

たまたま今読んでいる司馬遼太郎さんの「関ケ原」の書き出しのところに最適と思われるアドバイスがあったので、ちょっと長いですが、大事なポイントだと思うので引用します。

 

ちなみに、「関ケ原」は、全3巻の長編ですが、厳密な設計図があるものと思っていたので、意外でもありました。

 

いま、関ケ原という、とほうもない人間喜劇もしくは「悲劇」をかくにあたって、どこから手をつけてよいものか、ぼんやり苦慮していると、私の少年のころのこういう情景(注)が、昼寝の夢のようにうかびあがった。ヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。そういうぐあいに、話をすすめよう。
-引用:新潮文庫 関ケ原(上)平成14年6月15日 77版-

 

(注)こういう情景とは、関ケ原の書き出しで秀吉が鷹狩りに行き休憩した寺で、寺の小僧をしていた石田三成に茶を出してもらった有名な場面を司馬氏が少年のころ読んだ絵物語で見たことを指しています。

 

僕には、終活を何から始めるかについて、これほど的確に表現したものはないように思えます。

 

難しく考えないで、思いついたところから始め、行動を通して、自分の人生を見つめなおし、終わりを起点として現在をみることこそ最も大事なことではないでしょうか。

 

具体的な僕自身の活動については、順次ブログで紹介して参ります。

 

いつから始めれば良いのか

終活はなにもシニアの特権ではありません。

 

シニアと若い人との違いとは、人生に残された時間の期待値の違いだけなので、それは絶対値でないことは誰でも理解できると思います。

 

したがって、僕の結論としては、終活は思いついたらできるだけ早く始めることがベストだと思います。

 

財産も家族もいない人はやらなくて良いのか

 

財産も家族もいない人は、やらなくて良いのかと思ってしまうのも理解できないことはありません。

 

特にこれからますます、孤独死とかが多くなっていくと思います。

 

財産はおろか、後始末をする他人に迷惑をかけてしまうわけですが、僕の考えは、財産も家族もいない人こそ終活をやって欲しいと強く思っています。

 

いや、財産も家族もいない人こそ、終活に取り組んで欲しいと強く思います。

 

財産や家族がある人は、事務処理に人に頼むこともできるし、おそらく遺産争いをさけるための遺言さえしっかりしておけばいいのかもしれません。

 

ですが、金持ちの人生のほうが、貧乏人の人生より価値があるなどと誰が言えるでしょうか。

 

あるいは、子供や孫がいる人生のほうが、結婚もせず子供もいない人生より豊かだと。

 

これについては、ある牧師さんの話で僕が感銘を受けたものがありますので、別に紹介します。

 

まとめ

かなりとりとめのない記事になってしまいました。

 

でも、この記事で僕が伝えたかったことは、終活というものが、一般的に言われている3つの手続きばかりではないということです。

 

それはそれで事務的に進めるだけです。事務的な単純作業は気晴らしになります。

 

最も重要なのは、終わりを認識すること、つまりゴールを認識することで、より良く生きることができることだと信じています。

 

マラソンランナーが力をだせるのは、ゴールがあるからなのです。

 

もしゴールがなければ、漫然とした走りになってしまい、だらだらと過ごすことになります。

 

ゴールから物事をみなければ、今にこだわるので、つまらぬ喧嘩や感情のもつれが生じやすくなり、人生をつまらなくしてしまいます。

 

終点から光をあてれば、全く違った世界が広がる可能性があると思われます。

 

身近にいる人に対し、優しく接することもできるし、文字通り、袖振り合うも他生の縁を実感できるはずです。

 

多くのつまらない争いは消え、他人を気遣うことにより、健康寿命も延びます。(これはそういうデータもあるようです)

 

これから、僕の知る限りの情報を出していきますので、よろしくお願いいたします。

 

 

20200203 by okkochaan