教員の志望者が6年連続ダウンしているという。

 

つまり、教員にはなりたくないという人が増えているという事だが、これについて考えてみよう。

 

見わたせば家庭ではDVが横行し、教職員の不祥事のニュースがあるかと思うと、過労死でなくなる先生もいる時代である。

 

その昔、「でも先生しか警察官」と言われた先生という職業は、2019年の今、ブラック企業と等しい状況になっている。

 

あきらかな問題があるのに、何も変えようとしない状況は、まるで弱って死んでいく虫を冷たくみているのと同じだ。

 

熱血先生のようなヒーローはドラマの中だけの話であり、本来、教育という重要な役割を担った学校は殺伐としている。

 

そろそろ教育というものを根底から考え直す時期に入ったのではないだろうか。

 

教員のゼロ賃金での働かせ放題はとどまりそうもなく、教員の増員や部活などの外部委託などは、その場しのぎの対症療法に過ぎないからだ。

 

なぜ教員はブラックな職業になったか

話は50年前にさかのぼる。

 

1971年に制定された給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)により、公立学校の先生には、残業代を支払はなくてよいと定められた。

 

時間外労働や休日労働については、割増賃金(残業代)を支給しなければならないことを定めた労働基準法第37条の適用外とされている。

 

その経緯について、ぜひ読んで欲しいのが、以下の資料である。

 

昭和46年給特法制定の背景及び制定までの経緯について(文部科学省)

 

これを読むと、意外な点がわかる。

 

それは、すでに当時、教員による超過勤務についての提訴が行われていたということだ。

 

これは、給特法制定当時は、教員の残業があまりなかったという俗説とは異なる。

 

そして判例では、提訴側(教員側)の勝訴で終わっている例が認められる。

 

<参考:最高裁の判例 ※判決の時期は給特法制定以後>
1 時間外勤務手当等請求事件(昭和四七年四月六日最高裁第一小法廷判決)
・・・職員会議に出席することが教職員の職務の範囲に属するものであり、・・・被上告人らに対して事実上の拘束力をもつものであるとする原審の判断は、正当として首肯しうるところである。 してみると、本件時間外勤務に対しては、・・・時間外勤務手当の支給を拒むことができないとした原審の判断は、結局正当であり、・・・。

2 時間外勤務手当請求事件(昭和四七年一二月二六日最高裁第三小法廷判決)
・・・本件における各学校行事、職員会議等に参加することが被上告人ら教職員の職務の範囲に属するものであり、また、被上告人らに対する各所属学校長の本件時間外勤務命令の拘束力につき、右命令がされた当時客観的に法規に反し明白に無効なものであるとまではいいえない以上,被上告人らは上司の職務上の命令としてこれに服従せざるを得ないような立場に置かれているものと解すべきが当然であるとした原判決の認定判断は、正当として首肯することができる。 してみると、・・・本件時間外勤務をした被上告人ら教職員についても時間外勤務手当請求権は認められるべきであるとした原審の判断は、結局正当である。

(引用:「昭和46年給特法制定の背景及び制定までの経緯について」)

 

しかし、真の問題はここからである。

 

教員からの残業代請求訴訟を受けて、当時の文部省は教員の勤務実態調査を行った。

 

そして最終的に出てきた結論が、給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)なのである。

(給特法)

第三条 教育職員(校長、副校長及び教頭を除く。以下この条において同じ。)には、その者の給料月額の百分の四に相当する額を基準として、条例で定めるところにより、教職調整額を支給しなければならない。

2 教育職員については、時間外勤務手当及び休日勤務手当は、支給しない。

つまり、給与の4%を支給するかわりに、残業手当、休日出勤手当は支給しないということである。

 

かりに給与を20万円とした場合、月8千円で働かせ放題ということである。

 

そして公立中学校においては、月80時間という過労死ラインを超えた労働をしている教員が6割いて、しかも残業時間は増加傾向というのが実態である。

 

これは一般企業でいえば、ブラック企業とするに十分なことである。

 

教員の給与は、企業でいえばコストであるが、給特法は結果的にコストを抑えるばかりでなく、その変動も少なくするという使用者側にとっては理想的に規定することに成功したといえる。

 

有効な問題解決はあるのか

この教員の定額働かせ放題の問題は、過労死する教員の問題がでるたびに叫ばれていたが、法改正の動きもなく、働く教員にとっての有効打がなかなかでないように見える。

 

昨年末には、3万人を超える教員の署名運動もあったようだが、効果は疑問である。

 

僕は、この問題解決についての根本的なアプローチを見直すべきだと思っている。

 

では、どのような手法が有効打になりえるか考えてみたい。

 

1.「教職」の特殊性を捨てる

理由は不明だが、教員という仕事は特殊だという認識が世の中一般にある。

 

しかし、教員といえども労働者であることに変わりはない。

 

つまり、教員もまた一人の人間であり、プライベートも充実させ幸福を追求する権利があるという、当たり前な認識を教員も教員でないものも持つべきだと思う。

 

教員の残業の問題を調べると、必ずでてくるのが、「業務の特殊性」という表現である。

 

しかし、教員の業務はそれほど特殊だろうか?

 

業務の主軸に小学生や中学生を教え指導するということが据えられているからといって、業務が特殊だとでもいうのだろうか。

 

教員の業務を詳しく分析しないことには結論をだせないかもしれないが、おそらく特殊性などほぼないという結論になりそうな気がする。

 

極端な例えだが、お菓子メーカーで小学生や中学生を購買層のターゲットとしたら特殊な仕事ということになるというのとどれほどの違いがあるのかぜひ調べてみて欲しい。

 

僕の意見だが、教職の特殊性を認めるのであれば、世の中の仕事のほとんどは特殊な仕事になるのではないかと思う。

 

定額働かせ放題だから特殊だという話ならわかる。

 

教職が特殊だという考えのなかには、「教職=聖職」という考えが潜んでいる。

 

この考えは、教員のなかにも根強くあるように思う。

 

だが、教職は聖職ではないと勇気をもって認めなければ、教員は労働者ということにはならず、この問題解決を阻害する。

 

労働者でなければ、残業代がでなくても文句は言えないからである。

 

一方、先生であった人が、一般企業で働く場合に問題になることはよくある話である。

 

これまで、生徒に対して、命令したり指導したりする人間関係しか経験していないために、一般社会の常識になじめない方が多いのだ。

 

これも教職が特殊だという例かもしれない。

 

だが、この認識では、繰り返すが、教員が労働者になることは考えられない。

 

教職を特殊だと考えることは真っ先に辞めるべきだと思う。

 

2.教員のコアコンピタンスは何かだけを重視する

給特法は実にうまくできていて、簡単に言えば、公立の先生には残業が存在しないようになっている。

 

事実、教員は出勤時間の打刻はしても、退勤時間はしない場合がほとんどだそうで、これが過労死などが起きたときに、それを立証するための労働時間の特定をしずらくしている。

 

例えば、部活の担当になることは、ほぼ強制なのだと思うが、建前上は、その先生が好きだから自己責任でやっていることになっている

 

勝手にやっているのだから、当然、労働時間には含まれないし、結果、うつ病になったり過労死をしたりしても、学校側は何ら責任がないという理屈が生まれる。

 

交通安全指導だとか問題児の対応や親との面談、モンスターペアレンツは会社でいえば、単なるクレイマーだが、そのクレイム対応もあるだろう。

 

これらもすべて、残業手当などはないのである。

 

こうした状況で、教員側が出来ることと言えば、コアコンピタンス、すたわち教員として最重視すべきことをしっかりと認識し、勤務時間が超えるようであれば、他の業務は一切やらないことに尽きる。

 

教員のコアコンピタンスと言えば、生徒がしっかりと学ぶべきことを教え、また勉強の仕方を教えることである。

 

詳しくしらないが、公立の先生は文科省の学習自動要領にコントロールされているのだと思う。

 

だが、もしその学習指導要領が足かせになっているのであれば、文科省はそのしばりを出来るだけ軽減すべきではないだろうか。

 

つまり、学習指導要領に沿って授業をすることも大事だが、それ以上に、個々の生徒に向き合う時間を増やすことが重要な気がする。

 

限られた時間で効果をあげるには、何を大事にし、何を大事にしなくていいのかをはっきりさせるしかないのだ。

 

3.ストライキをする権利はないという問題

教員がもし労働者であるなら当然ストライキをする権利があるように思うが、公立学校の教員は地方公務員でもあるので、ストライキは禁止されている。

 

つまり、実現可能性はほぼない。

 

ちなみに、アメリカでは今年の始めに教職員のストライキがありニュースになった。

 

日本とは状況がかなり違う。

 

まず教職員の年収は、福利厚生上の収入を加算すると1100万円になるらしい。

 

これは、日本のサラリーマンで1000万を超えるひとが4%ぐらいしかいなことを考えると信じられないことである。

 

また、このストライキには批判も強くあったが、それは、ストライキのために学校が休みになり、食事を学校給食に頼っている貧しい家庭の子供たちが飢えてしまうという問題なのである。

 

国の違いによる要因は大きいけれども、1000万円をこえる収入がありながら、賃金アップや待遇改善を求めてストライキをする社会があることは覚えておいてほしい。

 

日本社会においては、いつの間にかどの業種でもストライキが少なくなっている。

 

この状況で、もしストライキが実現出来たらそのインパクトは非常に大きなものになるが、ストライキをあおるだけでも、処罰の対象になるので、この方法は考えない方がよさそうだ。

 

4.教員になりたくないという選択は有効

冒頭に述べた教員の志望者が6年連続ダウンしていることが、これにあたる。

 

このニュースでは、教員採用試験の倍率がわずか1.2倍の県があることを挙げて、教員の質の低下を案じている。

 

だが、教員の質の低下を心配する前に、なぜ教員になろうとする若者が減っているのかを考えるべきだろう。

 

教員の質の低下を心配するという意見のなかに、さきほどから述べている、教員が特殊な仕事だという考えがあるからだ。

 

もし教員採用試験の倍率が1倍を切ったら、面白いことが起きると思う。

 

こんなことを言うと、不謹慎だとか子供たちはどうなるんだという声が聞こえてきそうだ。

 

だが、僕には、そのような意見のほうが無責任に思える。

 

ところで、教員のなり手がいないことで、どのような政策を考えるだろうか。

 

もしかすると、それは残業代のわずかな見直しかもしれないし、民間からの教員採用とかシニア層からの採用とかかもしれない。

 

しかし僕は、子供の教育を学校にまかせきりにし、勉強は塾に通わせればいいという安直な考えが問題だと思っている。

 

子供の教育は本来、家庭で行うべきものだし、社会で行うものである。

 

勉強については、義務教育という形であれ、社会が学校に委託しているだけなのである。

 

だが、その委託先である学校の先生に子供の教育をすべて丸投げし、特殊な仕事とまつりあげて知らん顔を決め込んでいることが問題なのだ。

 

現在の若者が教員になりたくないという選択は当然のことなのである。

 

201290420 by okkochaan