この記事ではアウトプットがなぜ大事なのか、その理由について僕の考えを書いています。

 

アウトプットとか情報発信というとなかなか始められなかったり、始めても続かない方が多いように思います。

 

アウトプット関連本がベストセラーになったりして、アウトプットについての興味や関心は高いのですが、逆にいえば、アウトプット関連本が売れるのも思うようにいかない方がいるからだと思います。

 

アウトプットってそんなに大事なのでしょうか?その理由は?またどうしてうまくアウトプットが出来ないのでしょうか。

 

アウトプットを阻む原因を探り、それを除去するにはどうしたらよいか考えてみました。

 

アウトプットはどうして重要なのか

独断的かもしれませんが、僕の結論は、アプトプットは大げさでなく、あなたが生きている証であるから最重要だと考えています。

 

これが一番の基本であり、お金儲けとかアウトプットに対する反響や影響、インフルエンサーになることなどはその次の目的なのです。

 

その順番は、客商売をなさる人たちが、まずは顧客の満足のために利益を考えずに行動し、尽くすことでお金は後からついてくると考えるのと同じです。

 

ここでちょっと変化球なのですが、僕は解決できない問題があると自然界の法則とか生物からヒントを貰うことが非常に多いです。

 

たとえば、腸内フローラという腸内菌の様子をあらわす言葉があります。

 

これは、拡大鏡でみると腸内菌がそれぞれの種類ごとに群生していて、それはあたかも花が種類ごとに群生している様子のようであることから生まれた言葉です。

 

その腸内菌には悪玉菌と善玉菌の比率に関する理想的な状態を示す数字があるのですが、それは、2:1:7の割合だそうです。

 

2が善玉菌、1が悪玉菌、そして7は日和見菌といわれる、どちらでもなく、かつどちらにもなり得る菌です。

 

ここで非常に興味深いのは、7割を占める日和見菌です。

 

日和見菌はその名の通り、強い者の性質を帯びます。

 

つまり悪玉菌が強くなれば悪玉菌となり、善玉菌が増えれば善玉菌となります。

 

そのため、善玉菌と悪玉菌の比率が2:1であることが良い状態なのです。

 

ここから次のことが指摘できると思います。

 

・善玉菌が悪玉菌より多いことが大事

・悪玉菌も必要

・日和見菌も必要

 

これを自分が知っている組織や社会、政治の世界などにあてはめて考えると、いろんなことが理解できるし自分と反対の意見も当然あることもわかるし、明らかに悪意のある人がいることも理解できます。

 

そして、同時に、善玉菌も悪玉菌も日和見菌も生きて活動しているという当たり前のことに驚きます。

 

またそれぞれが、アウトプットをして体に良い効果をもたらしたり、悪い効果をもたらしたり、状況によって変化する大多数を占める日和見たちがいることがわかります。

 

ちなみに僕は僕自身のことを日和見と認識しています。

 

結局、アウトプットとは、ほとんど「生きる」ことと同義であるといっても間違いではないと思っています。

 

つまり、情報発信という形でアウトプットをしないとしても、生きているということは、何らかの形でアウトプットをすでにしているのです。

 

もし、このアウトプットを進化させ、形を与えて、文章や動画、芸術作品などに意識的に展開することが出来たらどうでしょうか。

 

その活動は人生の目的に限りなく近いものになり得るのではないでしょうか。

 

今、僕たちはインターネットの普及によって、かつて人類が経験したことのない状態、すなわち、誰でも簡単に情報発信ができるツールを手に入れることが出来ました。

 

この流れには素直に従ったほうがいいし、やらない理由は僕には考えられません。

 

アウトプットを阻む原因と除去法

では、アウトプットを阻む原因とその除去法について考えられることを書きます。

怖い

意外に多いのがこの理由です。

 

SNSに限りませんが、誹謗・中傷はある程度避けられないので、それが嫌な方も多いことでしょう。

 

ですが、先ほど書いた、腸内フローラの2:1:7のように不特定多数を相手にするSNSでは、嫌なことを言われるのは想定内と考えましょう。

 

誹謗・中傷、誤解は当たり前だし、初めはへこんだとしても慣れで必ず克服できます。

 

SNSにはブロック機能もついているし、見ないように設定できるので、初めのうちは、ブロック対応を使ってもいいかと思います。

 

またFacebookとか原則本名のSNSだと個人が特定されやすいので、敬遠する方も多いと思います。

 

実は僕もFacebookはあまり積極的ではありません。

 

Facebookについては、原則、直接の知り合い以上の方とだけ友達になっていれば良いのではないかと思っています。

 

掲載する内容についても、個人的なものになりがちなので、多くの場合、子供の写真を載せて「かわいい」という共感を得ようとします。

 

しかし、誰しも思うと思いますが、こうした情報は知り合い以外では興味がないことでしょう。

 

Twitterはどうでしょうか。

 

Twitterは拡散力が強く、かつ趣味嗜好が同じ人を集めやすいので、お勧めです。

 

また140文字という制限も上手に使えばかなりの内容を書くことが可能です。

 

環境としては、知らない人に見られる確率も高く、超ミニブログ的に使えるので、その反応でどれぐらいの人がその話題に興味があるかを簡単に自分で市場調査ができるツールです。

 

アウトプットするものがない

これも多くの人が情報発信についてスタートラインで犯す間違った認識です。

 

真実はどうかというと、アウトプットがまずあり、アウトプットの結果としてインプットの必要性(あるいは知識欲)が生まれてインプット、そしてまたアウトプット、アウトプットという繰り返しです。

 

人間の感情と言語表現の関係を研究なさっている方がいたと思います。

 

うろ覚えですが、こんなことが指摘されています。

 

「人間が笑うのは、おかしいという感情があるからではない。笑うことで結果としておかしいという感情が生まれる」

 

怒り、悲しみ、いじけるなど人間の感情行動は、表現が先行しているというこの指摘は、生き方について多くの示唆を与えてくれます。

 

だから挨拶とか感謝の言葉とかが大事であることも理解できます。

 

そして、この「笑う⇨おかしくなる」という関係は、「アウトプット⇨インプット」の関係と全く同じなのです。

 

また、インプットとアウトプットの比率がしばしば話題になりますが、それは個人差(生活習慣といってもいい)があるし、扱うジャンルやテーマによって変化しますので、あまり意味がないクイズのようなものです。

 

ここを考えるのは、時間の無駄だと僕は考えています。

 

とりあえず迷ったらまずアウトプットと覚えておきましょう。

 

アウトプットするものがないと考える方は、まずは理屈抜きでアウトプットしてみてください。

 

この問題の唯一の解決策は、自分でアウトプットしてみる以外にないのです。

 

きついのは、初めだけ。いわば飛行機が離陸する時のようなものなのです。

 

離陸すれば限りなく広がるアウトプットという大空があなたを待っています。

インプット⇨アウトプットの順だからまだ先

前項と似ていますが、まずは知識を得てからと考えて、真に価値のある行動であるアウトプットが出来ない方がいます。

 

いつまでも、「自分は若輩者ですので」というわけです。

 

これも百害あって一利なしなので、いますぐ辞めて欲しいのですが、その人はこれまで目立たぬように波風たてずじっとこらえて生きることが生存の手段として大事だと考えているので、矯正するのが難しい面があります。

 

たとえば、サラリーマンであれば仕事の99%は上司や会社からの意向に従って行ないます。

 

たまに改善案を求められて提出したりすることもあるでしょうが、それはあくまで会社の価値観に合わせたものでなければなりません。

 

自分の意見を通せるようになるには、偉くならなければならないので、それまではじっと我慢するしかないという生き方が、出る杭であるアウトプットなど後回しと結論づけ、自分も納得しています。

 

ただ、この発想にはどこまでもタテ社会の上下関係がイメージされているので、アウトプットされる情報の質もその影響をもろに受けてしまいます。

 

ズバリ言えば、その人は、自分がアウトプットしたものが何らかの影響とか存在意義を与えなければ我慢ならないわけです。

 

ですが、これはアウトプットの意義を根本的に誤解しているために生じています。

 

笑うことに影響とか存在意義を考える人がいるでしょうか?

 

もちろん、お葬式で笑ってヒンシュクをかった蛭子さんみたいな人もいますが、アウトプットの第一の意味は影響を与えるとか金儲けするとかではなく、何よりもあなた自身が生きるために行なうことであり、究極は生きることそのものなのです。

 

当初は共感されることなど意識しないで書きましょう。

 

アウトプットを始めたばかりで、文章力も知識もない状態であれば、バットを握ったこともないのにイチロー選手のように大リーグでヒットを放ちたいと考えるのと同じであり、滑稽きわまりないことなのですから。

 

インプットがないからアウトプットが出来ないと考えるのは、たんに怠惰なのか、あるいは傲慢なのかのどちらかではないでしょうか。

 

また「自分はまだ若輩者なので」という言葉にはいやらしい響きがあることは覚えておきましょう。

 

文章を書くのが苦手

かなり初歩的なつまづきに分類できる問題です。

 

つまり文章は多く読み多く書くことで自然とうまくなっていくものだからです。

 

ただ、SNSやWeb上の文章についていえば、僕は多くの方と異なる意見をもっています。

 

つまり文章は上手でなければならないという考えです。

 

少なくとも僕は、上手になろう、どうしたら伝えられるだろう、人の心に刺さるだろうと考えながら文章を書いています。(事実はどうあれ志はそうです)

 

だからブログとかネットビジネスを販売している人たちが、文章力不要とか言っているの読むと不快な気持ちになります。

 

また僕は、文章を書くのに苦手意識を持っている人は、そもそも伝えたいことがないのではないかと思っています。

 

たとえば、僕は中途半端に英語ができます。ネイティブからみると会話については小学校低学年レベルぐらいでありライティングは中学生ぐらいかなと勝手に思っています。

 

それでも表現する言語が英語しかなくなったとしたら、僕は迷いなく英語を話し書くだろうと思います。

 

つまり、文章を書くのが苦手と思っている人の真実は、アウトプットするものがない、あるいはアウトプットに価値を置いていないということではないでしょうか。

 

文章は訓練することで必ず一定のレベルに達することができます。

 

すくなくとも、現在多くのブログで書かれている平均以上のレベルには到達できるはずです。

 

「文章を書くことが苦手?そんな眠いこと言ってる暇があったら手を動かせ」と僕が勝手に師と思っている人なら言うことでしょう。

 

現在のインターネットは万葉の時代

 

最後にアウトプットの今後の可能性を示唆するために、追記的に書きます。

 

現在のネットは和歌でいえばまさに万葉の時代ではないかと思っています。

 

つまり、文章もそうだしコンテンツもそうですが、かなりの質の差があるし、いろんな可能性の追求がなされていると思っています。

 

検索エンジンの王者として君臨しているグーグルを強く意識し、検索キーワードにかなり力をそそいでいる人がほとんどだと思いますが、この検索能力は今後さらに発展していくのではないでしょうか。

 

現在の状態はキーワードによる検索で知識を得ることに主力が置かれています。

 

しかし人間の得たい情報は、単純な知識や方法論ばかりではありません。

 

より根源的な生きる意味だとか感動を得たいとかの欲求にもインターネットは答えようとしてくると思います。

 

つまり原始的な感動(始めて美しい花をみて言葉にしたような)である万葉集が現在であるとすれば、これが技巧を凝らした新古今和歌集を目指すのは当然のコースだろうと思うのです。

 

言葉は変遷し、それを極めることは不可能なものでもあります。

 

その意味では、文章を書かない人も書く人も大差がないと言ってよいと思います。

 

こうした非常に多くの人が検索し読み、書くネットの世界は可能性に満ちあふれています。

 

この宇宙のような広がりをみせる世界に向けて、たとえ読んでくれる人がたった一人であったとしても、いや、しばらくは誰も読んでくれなくても、情報を発信するというアウトプットをするということは、それだけで心が躍ることです。

 

この記事をお読みいただいた方には、一日でも早く自らがアウトプットする側になって欲しいと心から思います。

 

その楽しみ喜びは言葉にできないほどのものだからです。

 

20191207 by okkochaan