「上級国民」という言葉を生んだ一般国民(下級国民)の心情がパワーになる日

twitterで「上級国民」という言葉が多くつぶやかれている。

 

「上級国民」という言葉は、まだ日本語としては正規の認知がされていないので、正確な語義はない。

 

なので、あまりネットを利用しない人はご存じないかもしれない。

 

僕は、ジョウキュウコクミンという言葉の語感が美しくないので好きになれない。

 

たとえば、「ハイピープル」とかのほうがいいのではないかと思っている。

 

ここでは、上級国民という言葉が生まれた背景を簡単に説明し、その意味が転じてどのように使われるようになったのか、また、東京と神戸で起こった二つの交通事故において上級国民とその対語である「一般国民」との対比を紹介する。

 

なお、ネットではさらに進化して、「下級国民」という言葉が出てきている。

 

(個人的には、この下級国民もローピープルとした方が良いのではないかと思う。)

 

また、上級国民という言葉が広まった理由と、その言葉は、なんらかの力を持つものになりうるのかについて考えてみたい。

 

上級国民という言葉の誕生

上級国民という言葉がどうして生まれたか。

 

それは2015年に起きた東京オリンピックのエンブレムの盗作問題がきっかけである。

 

まだ記憶に新しい事件なので、もしかするとデザインの記憶があるかもしれない。

 

あの時、テレビをご覧になった人の多くは、これは盗作といわれても仕方がないだろうというのが「一般の」感覚ではなかったかと思う。

 

デザイナーは佐野研二郎氏。

 

当然、佐野氏は模倣を否定。

 

結局、五輪組織委員会は作品のオリジナリティは認めるものの、批判が強い中で佐野氏のロゴを採用することは見送るという実に「日本的な」対応をした。

 

正しいのであれば、それで進めればいいのではないかと僕は思うけれども、五輪組織委員会はロゴを選考した立場もあり、面倒に巻き込まれたくなかっただけかもしれない。

 

そしてその経緯説明の会見での発言が「上級国民」という言葉を生み出す発端となったのは皮肉なことだ。

 

経緯説明の記者会見では、「佐野氏がオリジナリティを主張する根拠は専門家には理解できるが、一般国民にはわかりづらい」ということを不採用の理由と説明している。

 

しかし、この説明に対し、ネット上では「上から目線」という批判が多くあり、説明の中でいわれているデザインの専門家というのは「級国民」ということかと対比された。

 

この記者会見に納得できない感情の動きから「上級国民」という言葉が生まれたのだが、その臨場感を味わうためには以下の動画をご覧いただくといい。

 

その後、上級国民という言葉は一人歩きを始めた。

 

オリジナルのデザイナーの専門家=上級国民から意味が転じて、特権階級とか上流階級などをさして使われるようになったのだ。

 

東京と神戸での二つの交通事故の対比

 

そして、2019年4月19日に池袋で元旧通産省の官僚で、大手企業の役員を経て、勲章を受けた80代男性の自動車が暴走し母子2人の命を奪う事故が起きたが逮捕はされず、名前は公表されたようだが、「さん付け」であったという事件が発生した。

 

その二日後の21日に神戸では市営バスが横断歩道に突っ込み、歩行者をはねて、男女2人が亡くなる事故が起きたが、こちらは過失運転致死傷の疑いで現行犯逮捕されている。

 

この扱いは、あまりにも違うのではないかということで、「上級国民」という言葉が再度ネットをにぎわしている。

 

代表的なツイートは下記のひろゆき氏のものだ。

 

もちろん、捜査手続きの選択は、検察にゆだねられているので、このツイートが根拠がないという意見もある。

 

しかし、一方で、あまりにも違いすぎるのではないか、やはり上級国民だからではないかという受け取りも強いし、忖度する側の人間だから守られているという意見すらある。

 

SNSの動きに敏感な権力者

こうしたSNS上の動きだが、いまだに鈍感な方がいるので書いておきたい。

 

現代は、なにか事件が起こると、ネット民ともいわれる不特定多数の人たちのツイッターなどの投稿が取りざたされるようになっている。

 

これをネットだからだとか、匿名性があるからという理由で重視しない人も多いと思うが、僕はその認識は改めた方がいいと考えている。

 

なぜなら、こうした「一般国民」の、あるいは民の意見というものは、いつの時代でも権力者や施政者にとっては、非常に気がかりなことであったし、なにもインターネットが普及したからではないからだ。

 

中国の古典文学(三国志など)を読めば、権力者がいかに民がどのような歌謡を歌っていたかを気にしていたかがわかる。

 

「このごろ巷ではどのようなものを歌っておるか?」と権力者がブレーンに聞く場面は頻繁にある。

 

まして、インターネットの飛躍的な拡散力は、三国時代とは比べ物にならない。

 

三国時代においては、歌にするという手段が拡散用のツールであったのだが、今や、ツイッターを始めとする強力なSNSがあるのだ。

 

ネットの拡散力を別にすれば、国や時代が異なっても、無名の民たちのつぶやきは何も変わらないともいえる。

 

ひとつひとつのつぶやきは、もちろんとるに足らないものであるし、くだらないものがほとんどかもしれない。

 

しかし、その無数のくだらないつぶやきのなかから、徐々に形作られて現れてくるものが何かということが、重要なのだ。

 

単なる意見や愚痴が、歌という形をもって拡散力をもつのと同じように、秀逸なつぶやきは、またたくまに地球全体に広まってしまう。

 

秀逸なつぶやき、つまり人々の心を刺すつぶやきは、無数の数えきれないつぶやきがあってこそ生まれるものなのである。

 

それは、鉱石から貴金属を取り出す作業に似ていて、想像を絶する言葉のなかから徐々に精度を高めてある日突然、立ち現れてくるのだ。

 

このパワーを意識しない権力者や施政者がいるはずがないのである。

 

上級国民という言葉は力を持つようになれるか

 

上級国民という言葉は、どのような心情や思いから生まれたのだろうか。

 

ここが僕の最も気になるところだ。

 

・時代の閉塞感

・努力が報われない社会

・単なるひがみやねたみ

・欲求不満のはけ口

 

こうした上級国民になれそうもないと思っている無数の人々の頭のなかから言葉という形であらわれたものではないのか。

 

また、日本社会では中流意識が高いといわれているが、それは、なんとか社会から落伍しないように必死で守ったうえでの中流意識であり、ちょっと失敗すると二度と浮き上がれないという思いも強いことだろうと思う。

 

海外のもっと貧富の差が激しい国にくらべれば、安全で平和な良い国だと思っている人も多いはずだ。

 

だが、それも少しずつ崩れてきているように思えてならない。

 

最低賃金が他の先進諸国と比べて、極端に安いことなどがその理由である。

 

「下級国民」という意識を持つ人々が急速に増加していると思う。

 

ただ、上級国民に対して下級国民が立ち上がり、ベルサイユ宮殿につめかけたフランス人のような行動になるとは思えない。

 

それは日本に革命が起きなかったという理由ではなく、上級国民という言葉の純度が低いからである。

 

本当に国民の心を動かす言葉が精製されるには、あと1万語ぐらいの「上級国民」レベルの言葉が必要ではないだろうか。

 

 

20190422 by okkochaan