書名:色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
著者:村上春樹
発行所:文藝春秋
個人評価:★★★★★ ぜひ読んで欲しい

この本の出版は2013年ですが、ネタバレを含め非常に多くの感想が寄せられています。

 

その多くは、僕と同じく、読んでよかったという満足度が高いものです。

 

ただ、何が良かったのかという話になると、かなり意見がわかれる印象です。

 

中編小説でありながら、これだけ多くの意見・感想がだされるというのは、その数だけの読み方が可能な本であるということであり、それは作者の想定すらおそらく超えているのではないかと思います。

 

この本の帯に著者インタビューがあり、そこにはこの小説の創作過程における興味深い事実が語られています。

 

少し長めですが、重要なことに思えるので引用させていただきます。

 

ある日ふと思い立って、机に向かってこの小説の最初の数行を書き、どんな展開があるのか、どんな人物が出てくるのか、どれほどの長さになるのか、何もわからないまま、半年ばかりこの物語を書き続けました。最初のうちに僕に理解できていたのは、多崎つくるという一人の青年の目に映る限定された世界の光景だけでした。でもその光景が日々少しずつ変貌し、深く広くなっていくのを見るのは、僕にとってとても興味深いことえだったし、ある意味では心を動かされることでもありました。(著者インタビューより)

 

僕は小説を書くのに設計図を書いたり、創作ノートをつけたりして骨組みを組んでから取材や調査をしつつ肉付けをしていくものと思っていたので、この発言は非常に新鮮に思えました。

 

これは音楽でいえば、即興演奏に近いものかと思いますが、この手法で小説を書いていけるんだという驚きと、「多崎つくるという一人の青年の目に映る限定された世界の光景」が他の登場人物を召喚し物語を展開させていけるという村上氏の創造力のパワーを感じます。

 

そう思って、再度、この小説の始まりの部分を読んでみると、あたかも交響曲のように始めに主題提示があることがわかります。

 

主題提示は、そもそもこの小説の長いタイトルである、色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年にも表されています。

このことが、その後の展開をすみやかにしたのではないかと思います。

 

一方、この作品に対して低い評価をしている方々の意見で多いのは、結末がどうなったか書かないで放置されたという印象を持ったというものです。

 

メインストーリー以外に、サブストーリーとして出てくる話が2つありますが、それもその後どうなったか気になりながら、もしかすると最後にはすべてが明らかになるのではないかと言う淡い期待を抱きつつ読み進めてしまいます。

 

しかし、サブストーリーのその後が明らかになることはなく、メインストーリーの結末も放置したまま物語は余韻を残して終わります。

 

僕は、この村上流の終わり方が非常に好きです。

 

メインストーリーの結末は主人公の多崎つくるにとっては重要な問題ですが、物語の価値としてはほとんど意味がないからです。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上氏の話の展開が面白いし、フィンランドの美しい光景もあり、後ろから背中を押してくれるようなはっきりとした結末があるほうが確かにわかりやすいです。

 

しかし、この小説の本質は、この物語全体にあり、もっと細かく言えば、一つ一つのプロットにあると言えます。

 

少なくとも、村上春樹さんの小説に水戸黄門のような結末を求めるべきではないでしょう。

 

また、今回、特に注目したのは、男女の会話の部分です。

 

おそらくこの小説に限らないでしょうが、村上氏の小説に登場する男と女の会話は、通常の男女の会話とは違います。

 

一読すると、普通にありそうな会話にもおもえますが、現実世界の男女の会話として、話されることは少ない内容です。

 

しかし、このような会話を異性としたいと考えた人も多いと思います。

 

でも、それは抽象化された会話なのであり、理想的な気遣いであり、これほど相互に理解しあったうえでの会話は実際には話されることはないのではないかと思います。

 

絵画でいえば、ピエール・オーギュスト・ルノワールの「水浴の女」という裸婦像がありますが、これは「水浴する裸婦」という絵画上のテーマを追求して描かれたものであり、現実に水浴する裸婦がいたので描いたわけではないのと同じです。

 

村上氏の会話には、感情をむき出しにした表現はほとんどでてきません。

 

むしろ、モノローグではないかと思えるぐらい、会話は落ち着き、周囲の自然やリストの音楽と調和していきます。

 

そのあたりも、村上文学の大きな魅力なのかもしれません。

 

振り出しにもどりますが、どのような小説になるかわからず半年書き続けるということは、すごいことだと改めて思います。

 

つまり作者自身、小説がどのように展開するかわからず、登場人物が勝手に生命を得て動き出すということです。

 

これは、小説を書く上での理想形だと思います。

 

考えてみると、小説は論文ではなく、必ずしも何かを主張したりしません。

 

なぜなら、小説の世界は、それ自体で完結しているからです。

 

本当に語りたいことを論理的に書こうとするとき、それが独自性を持つ割合に比例して論理性を逸脱する傾向があるのではないかと僕は思います。

 

その時、感覚的に語る、あるいは音楽や絵画で表現するということが生まれるのではないでしょうか。

 

なお、この小説についての多くのコメントは、下記からも読むことができます。

 

少なくとも、この小説を読むことで、あなたは、全く違った人生を味わうことができるはずです。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 [ 村上 春樹 ]

 

20190404 by okkochaan