パワハラをふるい倒されるかつての強者

 

僕は最近のスポーツ関係の組織的なスキャンダル報道を苦々しく思っていました。

 

日大アメフト部に始まり、アマチュアボクシング、そして体操となれば、
興味がある方にとっては、面白いと思いますが、僕にとっては、
全く興味がないことだったからです。

 

「それほど大事なことか?」と心底思ったし、
僕のように興味がない人間には無縁の話題であるし、
そもそも、しつこくいつまでも、
それが最重要事であるかのように報道され議論されている
マスコミの態度に怒りさえ覚えました。

 

もっとも僕には、物事を斜に構えてみる傾向があります。

 

それは、簡単に言うと、世間の多くの方が熱中していると逆に興味を失う、
あるいは興味がないふりをするという傾向です。

 

こんな人を「天邪鬼」(あまのじゃく)といったりします。

 

自分との付き合いも長いので、こうした傾向自体には
意味がないことを僕はわかっています。

 

ただ、速見コーチの会見を見ていて
僕は全く別のことを考えました。

 

それは、大げさに言えば、時代が変わっていく
大きなうねりのようなものを見たように
思ったということです。

 

3つのスキャンダルの共通点

日大アメフト、アマチュアボクシング、そして体操、
この3つに共通するものは、権力を手にしたボスザルが倒されていく
ということではないでしょうか。

 

ボスザルが高齢になり、力がなくなったという面もありますが、
ボスザルを倒す武器は、体力とか実力とかではなく、
「パワハラ」という新兵器なのです。

 

そして、倒されていくボスザルたちに共通するのは、
この少し前からあるにはあるけれど、重視していなかった
「パワハラ」というものを理解していない点です。

 

もちろん、言葉ではパワハラを認めて謝罪したりしています。

 

しかし、僕には、彼らがパワハラを認識して、
反省し謝罪しているようには思えません。

 

世間の圧力が「パワハラ」という錦の旗のもとに
非常に強い力をもって迫り、そして倒れたからです。

 

その「パワハラ」という武器は、ボスザルたちには、
全く理解できない新型兵器のように映っているのでは
ないかと思います。

 

パワハラと暴力行為との違い

速見コーチは会見で、「暴力行為は指導の一環なのか」という
報道陣の質問に対し、以下のようにおっしゃっています。

 

「私自身、そういう認識(指導の一環)だと思って大人になってしまった
宮川選手が練習に身が入っておらず、危険な場面になってしまうことがあった。
(練習中の)命に関わってしまう演技の部分で暴力行為をしてしまった」
-スポニチからの引用-

 

僕はパワハラは心底憎んでいますが、暴力行為については、
そういう認識(指導の一環)だと思って大人になってしまった
という速見コーチの発言が理解できます。

 

シニア世代の多くは、少年・少女時代に暴力を伴った「指導」
を当たり前のように受けていた方も多いのではないでしょうか。

 

僕の小学校時代に、ある時、先生たちが生徒に体罰を加えるために、
棒でたたくことが流行っていたことがありました。

 

そして、その棒に「精神棒」とか「根性棒」とか名前をつけて、
まるで宝刀のように職員室で磨いたりしていたのです。

 

そして僕は職員室で、先生同士が自分の棒を自慢したり、
相手の棒をほめたりしている場面を見てしまったことが
あります。

 

その時、子供だった僕が直観的に感じたのは、
彼らは、快楽として棒で生徒を叩いているのではないかという
ことでした。

 

また先日、文化放送を聞いていたら、子供時代に学校で
受けた暴力の話をしていて、そのなかで、以下の話が
印象的でした。

 

それは、なにか役割をはたさない子供がいたときに、
「全体責任」ということで、クラスの生徒全員が
処罰を受けたという話でした。

 

全体の責任ととらえることは、意味のあることかも
しれませんが、その処罰の方法は陰湿に思えます。

 

クラスの生徒全員で輪をつくり、手をつながせ、
その一端から100vの電気を流すというものです。

 

直列につないだ形なので、一人一人にかかる電圧は
その分減るわけですが、それにしても、今では
考えられない体罰の方法です。

 

しかも教師に暴力の意識はなく、余興をやるかのように
行っていたそうです。

 

こんな価値観が当たり前で、普通のことだった時代は
確実に日本にも存在しました。

 

パワハラと暴力行為は、いずれも力の強いものが、
弱いものに対して行う行為で、僕にはどちらも
とうてい容認できないことです。

 

しかし、パワハラと暴力行為の違いを言えば、
パワハラは自分の力を利用した卑劣な
ハラスメントであり通常は暴力を伴いませんが、
暴力行為は具体的に障害を与える行為があることです。

 

ただ、ハラスメントにはない愛情の裏打ちが
暴力行為の場合はあり得るとも言えます。

 

スポーツ界のスキャンダルは日本社会の縮図だ

日本ではサービス残業が減るどころかむしろ増加し、
官庁では、叩かれる可能性がある交渉記録をそもそも
つくらないという状態になり、
総裁選では、安倍陣営が党員に自分に忠誠を誓えという
「誓約書」を提出しという、
有史以前の社会でも、より人間的にことを運ぶだろうと
思われるようなことが蔓延しています。

 

そうです。僕たちは、こうしたハラスメントとか
暴力行為を受け入れて生きてきてしまっているのです。

 

企業のためなのか、出世のためなのか、あるいは
その両方のぐちゃぐちゃになって、当人でも
よくわからない理由で、サラリーマンの70%は
不要な残業を受け入れています。

 

自分の身がかわいいから、保身のために、あるいは
家族のために、そのなんだかわからない理由で、
一見「安全」に思えて、強い者を支持し、
自分の意見は言わず、ハラスメントも言葉の暴力も
受け入れて耐えて生きてきているのが
大方の日本人です。

 

僕は、こうした日本社会の駄目なところを
18歳の宮川選手が奇しくも暴露したことが
とてもいいことだと思っています。

 

ただ、繰り返しになりますが、これで倒れていく大人は、
パワハラがなぜ悪いのか理解していないでしょう。

 

理解できない怪物であるパワハラに倒されていくのは、
ある意味、あわれでもあります。

 

しかし、理解できずに倒されていくという意味は、
本質的な問題は解決していないことを意味します。

 

あなたの周囲にも注意してみれば、こうしたハラスメントや
暴力的な行為が蔓延していることに気づくことと
思います。

 

僕は宮川選手のように、一人一人が主張していかなければ、
本当の意味での変化はないだろうと思っています。

 

その意味では、最近のスポーツ界のスキャンダルは
非常によい動きではないかと考えています。

 

20180906 by okkochaan