ブログ発信意味
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ここ7か月の間、特に理由もなくブログを書きませんでした。

 

理由をつければいろいろ言えるでしょうが、すべて嘘っぽいし、言い訳に思えてならないので、これは問題にしません。

 

ここでは、タイトル通り、ブログで発信する意味について、ブログのない生活と対比しながら考えてみたいと思います。

 

ついでに、なんでこれを書くかと言えば、このブログを書かなかった7か月間、ぼんやりとですが、僕はずっとこのことを考えていたからです。

 

また、僕がたまたまブログという媒体で発信しているので、ブログを題材にしていますが、「ブログ=発信」といいかえても同じ意味になります。


僕の得た結論を言うと、僕にとってブログのない生活とは生きる意味を失った生活ということになります。

 

僕は決して発信ありきで初めからブログを書くことを結論として言っているのではありません。むしろ生きていることに特段の意味がないとすれば、生きる目的などという大時代な問題提起自体が、ナンセンスなものになるでしょう。

 

しかし生きるということが、なんらかの困難を克服することや、他者を認め愛することにこそ意味があるとすれば、生きる上での無数の問題に正面から向き合い、それについて発信することが無意味だとは思えません。

 

僕はかつては、文学以外には何にも価値を感じない人間でした。その時感じたことは、「世の中のほとんどの人たちはなんと無言で耐えて生きているのだろう」というやり場のない溜息でした。

 

それは少なくとも数百年単位で考えられるほど、ともかく生きるために野生動物と何ら変わりなく、必死で耐えてやってきたことです。

 

実際、ほとんどの人は(僕も含めて)、生まれて食べて子供をさずかる場合もあればそうでない場合もありますが、やがて老いて死んでいくだけです。

 

そうです。ほとんどの人は、何も発信することなく、まるで犬や猫のように何かをうったえかける目をしながらも、なにもいわず、もくもくと働き、死んでいくのです。

 

現在、欧米では、コロナによって毎日多数の方がなくなっていますが、根底に、一人の人間の死というものが、ひとつの宇宙が消滅するのと同じぐらいの重みとしてとらえられています。

 

一人の人間の命の価値は、日本でも、また人の命が軽いとみられている中国であっても同じはずです。

 

ただ、個の主張が欧米に比べて目立たないか少ないかする傾向があるのと集団の利益を個の利益よりも重視する傾向があるために、人の死を宇宙の消滅と同義とまで哲学的に昇華されていないだけです。

 

かつては日本にも武士道というものがあり、大義のために死ぬことを栄誉と考えることができました。

 

しかし、武士道は第二次大戦の陸軍によってゆがめて利用され、国家主義的な思想と結びつけられたために汚れてしまいました。

 

個よりも集団の利益を優先するという考えの方が、どうやら日本人にはなじみやすいという傾向は今も昔もかわりません。

 

しかし、この経済も低迷し、若い世代は華やかな時代も話にしか知らず、分をわきまえて黙って生きていくという姿は、健全ではありません。

 

一部の経済的に成功したことを誇張する人たちによって、それにあこがれて失敗する人もいれば、そもそもそのような覇気もなく、あきらめている人も多くいます。

 

文化的にはどうでしょうか。これは検証が必要ですが、これだけSNSで個人の発信が容易になったにもかかわらず、本当に発信していると言える人は決して多くはないように思います。

 

つまり、後世に残るような文化を創っているのか、また、そこまで大げさでなくても、現在の活動が意味があるものなのかというと、かなりの疑問を感じざるを得ません。

 

とりとめがないですが、こうした事柄をつらつら思うにつけ、僕はやはり発信の手段としてブログを継続することに決めました。

 

変わったことと言えば、書きたいことを書くと決めことです。

 

これには解説が必要ですが、ブログの書き方を教える人の多くが、「自分の書きたいことは書くな。読者が知りたいと思うことを書け」と言っています。

 

その根拠は、読者の知りたいこと、はっきり言えば、読者が検索するキーワードにそって書かなければ、グーグルの検索上位に表示されないので誰も読まないということです。

 

誰も読まなければそのコンテンツは、砂漠でお店を開くのと同じように無意味だという論拠です。

 

結論として、誰も読まない記事は無価値なので、書くなと教えていますし、書きたいこと=あなたの意見、は誰も求めていないので書くなというわけです。

 

それは単純な効率から見る限り当然のことですし、僕もなるべくなら一人でも多くの方に読んでいただければと思っています。

 

しかし、文学をやっていた僕としては、「100人の読者がいれば十分」という考えも強くあります。

 

100人というと、非常に少なく感じることと思いますが、同時代に100人の理解者がいるというのは、奇跡に近いぐらい多い数字です。

 

SNSというこれまでにないツールを手にした人類は、紙の発明が画期的だったことぐらいにすごいことだと思います。

 

そして、情報は当初の単純な目的である「伝達」から「教育」など時間を要する内容に進化し、さらに、真の意味でのコミュニケーションである「感動」へと進化していくことは間違いありません。

 

ただこうして記事の内容にあらかじめしばられる気持ちは全くありません。

 

つまり、僕はこれから書きたいことだけを書きます。

 

書きたいことには、伝えたいこと、教えたいこと、感動したり共感してもらったりしたいことまですべて含みます。

 

これが僕が7か月間、ブログをさぼって考えたことです。

 

このブログを書かなかった7か月間については、本当の発信の前の沈黙であったと思うし、もし今後またブログを書くことに挫折しそうになった時に、あの無意味だった7か月ということを強く思い起こすことができればと思っています。

 

まあ口だけとならないためには、これから日々実践あるのみです。

 

僕と同じようにブログが書けないと悩んでいる方がいたら、少しでも参考になればと思います。

 

ブログを書くこと自体が目的なのではありません。

 

それでは、「歯を毎日みがく目的=歯をみがくため」といっているのと同じです。

 

歯を磨くのが虫歯を防いだり口を清潔に保ち、病気を防ぐためであるのと同じように、ブログを書くことは、それによって生きる意味を問い続けることでなければならないと僕は思っています。

 

20201227 by okkochaan