
トラブルというほどの事件ではありませんが、ある韓国の銀行に派遣したときの出来事で、忘れられないことがあります。
話はとても単純で、派遣したスタッフが当初の3カ月契約の満了をもって更新しないといったことが発端でした。
その理由をよく覚えていないのですが、職場になじめないとかいうような内容だったと思います。
こうしたことは、派遣では、非常によくあることで、派遣営業としては、基本はとめに入ります。実際、スタッフの真意が止めて欲しいという場合だってあるのです。
なので、まずは止めに入って、スタッフとよく話をし、その理由と状況によってその後の対応を決めていくわけです。
派遣をあまりご存知ない方は、契約通りに辞めるのにどうして止めるのか?おかしいではないか?と思われるかもしれません。
確かにその通りです。契約を全うしたうえで更新しないことに対し、理由を開示する義務などどこにもありません。
しかし、もともとスタッフもクライアントも、そして派遣会社も長期で働くことを望んだうえでの初回の契約であったので、派遣会社としては理由を知りたいところではあります。
ちなみに、派遣スタッフが契約を更新しない理由はさまざまですが、非常にウエイトが大きい理由が職場の人間関係(職場環境を含む)なのです。
そのほかに考えられるのは、転職、他の派遣先が決まった、家族の介護、留学や習い事、結婚、妊娠などですが、これらの理由にしても実は背景に人間関係がある場合が非常に多いのです。
またハラスメントが原因である場合もあり、これはちょっとやっかいです。
この問題をこじらせてしまったのは、スタッフが派遣会社に対して更新しない意思表示をしたのではなく、派遣先の総務人事担当の女性に対して話してしまったことです。
つまり、営業担当である私が知ったのは、派遣先の女性担当者からの連絡によるもので、営業担当としてはほめられる状況ではありませんでした。
私の言い訳としては、そのクライアントを引き継いで2週間ぐらいだということがありますが、それにしても、前任者がスタッフとの関係を良好に築いていれば、先に派遣会社に連絡・相談があったはずなので、派遣会社の責任といってよいと思います。
そのスタッフはまだ20代で若く、また業務経験もあまりないのですが、地味でおとなしく従順な印象があり、前任者からは全く問題ないと聞いていたように思います。
おそらくは、派遣先の女性担当者にも現場の方たちにも、あまり自己主張をしない真面目な女性と映っていたに違いありません。
その彼女が、派遣期間を1カ月以上残す時点で、女性担当者に対して更新せずにやめたいと話してしまったのです。ただ今思うと、女性担当者の性格からの想像ですが、無理に意思確認をしてしまったのかもしれません。
まあ、繰り返しますが、ここまででしたら、よくある話で、私の印象や記憶に残らなかったと思います。
問題はここからです。
女性担当者からクレイム電話があり、スタッフ〇〇さんが、契約更新をしないと言っているが、非常に困るので、なんとかしてくれとのことでした。
私はその日の銀行終業後の夕方に女性担当者に会いに行きました。
私の正直な気持ちとしては、派遣スタッフが契約更新をしないぐらいで、なんでここまで大問題になるのか?という素朴な疑問でした。それほど、電話での女性担当者は強くクレイムをしていたのです。
オフィスは他の社員が全員退社しており、いるのは私と彼女だけでした。
彼女はスタッフが更新したくない理由をしつこく聞いた様子でした。
スタッフは、外資の金融会社で働きたいといったらしく、例として、ゴールドマンサックスみたいなところに行きたいらしいと言いました。
それを聞いて私はすぐに、あ、これは、職場での関係がなにか息づまるような閉塞感があることを察しました。
しかし、それを言うと、クライアントの悪口になってしまいます。
そもそも銀行というところは、日本の銀行であっても、正確さ几帳面さを重視しており、和気あいあいの職場環境とは程遠いのです。
私はゴールドマンサックスなど外資金融に詳しかったので、「あんな会社のどこがいいんでしょうねえ。」と言ってくる彼女に同調し、「若いだけに、おそらく表面の華やかさに惹かれてしまうんでしょうね。」と適当に相槌を打ち続けます。
そのうちに、なんだか話の方向がだんだんとスタッフの更新しないことではなく、女性担当者の信念とか不満とかプライベートな問題とかを私がフムフムと言いながら、良い人のふりをして聞いてあげるという形になってきてしまいました。
彼女はコンプレックスを二つもっているようでした。
ひとつは、在日韓国人でありながら、韓国語を話せないこと。
もうひとつは、結婚していないので、まだ人として半人前であること。
どちらも、今思うと、どうでもいいような話なのですが、彼女にとっては深刻な問題のようでした。
よく韓国は10年前の日本だと言われますが、私はあらためて、そうした価値観で生きている方を目の当たりにし、非常に驚くとともに、ちょっとした郷愁に似たものをかすかに感じたのです。
彼女の年齢はおそらく40代後半から50代前半だったと思います。
この銀行に勤めて、これまで3代の支店長にお仕えしてきたこと、支店長というのは、日本の会社でいえば部長にあたることなどを教えてくれました。
お仕えするという表現にも驚いてしまい、またこの方は本当にそう思っているんだということもよくわかったので、スタッフには申し訳ないと思いながらも、今の若い人はだめですねみたいな意味不明の同調を、うんざりしながらも続けていました。
すると、さらに驚いたことに、彼女は時計を見て思いついたように、「ご飯を食べに行きませんか?」と言ってきました。
私は、クレイムしてきた顧客とそのあと飲みに行ったことはありますが、それらはすべて男性担当者で、女性担当者からこんな誘いを受けたことは初めてでした。
これは韓国流の礼儀のなにかなのか?私は少し混乱してしまったのですが、丁重にお断りさせていただいたのです。
最後に、彼女はこの件で支店長に会ってもらうことになるかもしれませんと言いました。
その言葉通り、3日後ぐらいだったと思いますが、私は真っ白な支店長室の応接に座っていました。
女性担当者が、蓋つきのお茶を運んできてそのまま下がり、部屋には支店長と私だけになりました。
支店長は30歳になったばかりぐらいの年齢の細身で線の薄い印象があるおだやかなエリートでした。
私は、今回、スタッフが更新しないでやめることに対し結果的に銀行のお役にあまり立たなかったことについてお詫びをし、また契約としては、引き留める根拠がないことを話しました。
支店長はうなずき、理解を示してくれました。
私は女性担当者としては、この形が作れれば良かったのだなと納得しました。
支店長とそのほか何を話したのか全く覚えていません。
ただ、ひとつよく覚えているのは、支店長がテーブルにある大理石のタバコ入れを私に勧めたことです。
どこの派遣会社でもそうだと思いますが、顧客の前でタバコを吸うことは厳禁です。
私はこの規則を知っていましたが、同時に、女性担当者から食事の誘いを受けたことも思い出していました。
支店長は形式的に良ければどうぞというよりは、あたかも、結婚式でお酒を勧めるかのようなちょっとだけ強制力のある勧め方をしました。
私は、会社の規則以上に、このタバコは受けなければいけないと強く感じたので、タバコをいただき、支店長の前で吸いました。
そのあと、私は支店長室から失礼することになったのですが、女性担当者が入ってきて、私がタバコをすったことを見届けると、とても満足したような顔をしていたのです。
さて、話はここまです。
このことで、私は、いろんな価値観で生きている方がいることは、当然ではありますが、相手の大事にしている価値観をむやみに否定することも間違いだと強く思ったのでした。
20210305 by okkochaan